自分のことは分からない|本人だけが疼きに耐える|セラピーの現場から(629)
不思議な話があります。グループカウンセリングなどで、誰も皆、人のことは良くわかりますが、自分のことは良くわかっていません。例えばある人が、自分の子どもが自立できずに不憫(ふびん)なので何とかしたい、との話だけれども、よーく聞くと、自立しない子供を手放したくない思いが見え隠れする。本人は気が付いていませんが、周りで聞いている人は、ほとんど皆が気が付いている。本人が「手放したくない」という本音に行きつくのを、周りは、今か今かと待つ。本人だけが本音に気が付かない、というようなことが、よく起こります。
ところが本人は、気が付かないだけではなく、自分の事に謙虚になれません。自分の事であっても気が付かないことがあるのではないか、と謙虚に振り返れる人は稀です。自分のことは自分が一番よくわかっているつもりになってしまいます。自分とは生まれてから今までずーっとのお付き合いですから、自分のことは他の誰よりもよく理解しているつもりになってしまいます。
これは不思議なことです。こんな不思議なことがなぜ起きるのでしょうか。その理由は、他人の傷は痛くないが自分の傷は疼(うず)くからではないでしょうか。上の例で、子供を手放したくないのは、手放してしまうと、心の傷が疼くからです。心の傷を自分の子供の存在で癒(いや)してきました。本当の癒しではないにしろ、慰めにはなってきました。それを、「手放したくない」という本音に行きついてしまうと、自分の身勝手さに気が付いてしまい、本当に子供を手放す羽目になり、慰めは消えてしまい、隠していた心の傷が、いよいよ疼いてしまいます。だから本音に気が付く訳にはいきません。無意識に気が付かないようにします。
ところが、聞いている他の人は、本音は「手放したくない」ということだと気が付いても、別に自分の心の傷が痛むわけではありません。共感は起きうるでしょう。でも本当の傷が疼く痛みを味わってしまう訳ではありません。本人だけがその疼きに耐えなければならないのです。
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