生きている事自体が見っともなかった<実は子供を愛してなかった>1/2|セラピーの現場から(668)
<胎児を大事にする気持ちがなかった>
校長は、お腹の大きいの(教師)は採用しないが「取るしかなくて」と言った。同じく教員だった夫はそこから6キロ離れた学校に勤めなければならなかった。まともな腹帯もなかったし、妊婦の私は腹を巻く腹帯の付け方も分からない。始めはサラシの腹帯をしていたが汚れたから伸縮(性)のある腹巻きで仕事をしていた。胎児(長男)に対する優しさはなかった。そのうち腹が目立ってくる。胎児を大事にする気持ちがないので、大きくなったお腹で無理をした。と言うより、やっていけないことが、わからなかった。つっかけを履いたまま子供達と一緒に暴れ回ってお腹に意識がなかった。胎児が逆子になった。引越し先から離れた所の産婦人科の検診で分かった。そこで体操を教わって戻した。ようやく助産婦さんに教わって腹帯の巻き方をした。
お産は、夫の実家を頼った。夫の実家は遠かった。私の勤務地から3時間かけて行った。夫の実家のあるところから更に離れた病院でお産することにした。出産ギリギリまで日直もやった。
出産
<仮死状態、おっぱいが出ない、ミルクを吐いた>
入院した。初産だから状況が分からなくて、赤ん坊の頭が出かかっているのに看護師さんを呼ばなかった。怒られた。分娩室に行って産んだが赤ん坊は泣き声をあげなかった。へその緒が、何重にも絡んでいて仮死状態だった。次の日あたりから泣き始めた。初乳をあげたがおっぱいが出ない。赤ん坊は私に3時間くっついて離れなかったがやはり出なくて泣いた。助産婦さんに「泣き過ぎてチアノーゼ状態になるので、大きくなったら脳波を調べるよう」に言われた。諦めてミルクにした。ミルクの上げ方も下手だったのか赤ん坊は激しく吐いた。私は不安なまま子供を育てはじめた。
<着替えの産着を持ってきてもらえなかった、院内感染した>
産着や肌着や布団を汚した。当時の産院では子供の産着は用意されていなく自分で持参する習慣だった。着替えの産着を夫に家から持ってくるように頼んだが、いつまでも持ってこなかった。仕事が忙しいせいということもなかったはずだ。冬休みで実家にいたのに。頼んだことをまともに聞かなかった。父親という感覚が無かったのだと思う。とうとう持って来なかった。産着なしで何とかするしかなかった。子供用の丹前を母が作ってくれていたので、仕方なく、それを肌着なしで着せて横に寝かせた。そのせいで子供は風邪をひき、さらには院内感染し、ブドウ状球菌にやられた。
<子供を抱いて飛び降りたいと思った>
姑(夫の実家)のところに退院した。が、子供は熱があって胸が腫れた。ブドウ状球菌が残り大きく紫に腫れていた。しょうがなく他の病院に行った。一緒に入院した。ベットに寝ていたけど、子供の扱いが分からなかった。病院の屋上から子供を抱いて飛び降りたいと思った。子供を育てられない、この先どうして良いか分からない、親子心中しようと思った。実行は出来なかった。
<不安、赤ん坊が落ちるかも>
赤ん坊を脱水状態にさせたこともある。とんでもない扱いをした。夫はセックスが満たされない期間が長かったから怒りっぽかった。夫が迎えに来た。夫の実家といっても狭いアパートだった。そこへ子供を連れて3人が転がり込んだ。産湯は姑がやってくれた。私は産湯につけさせるのは不安だからやれなかった。手から落ちると思ってやれない。今思うとやれないはずがないのに。今は産院でも教えてくれるが、当時私の場合には親は教えてくれないし、不安でやれなかった。
ミルクは私も夫もやったがぎこちない。「そんなんで子供を育てられるか」と姑は怒った。夫は「立派に育てて見せる」と啖呵(たんか)を切った。ミルクの濃さが分からず濃いミルクを与え続けたために、子供は便秘になった。姑が油を塗って肛門を刺激し出してくれた。私は子育てから逃げたかった。赤ん坊が怖くて接することができなかった。
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