ベビーブレスによる解放と禅の悟りとの類似と相違2/2|セラピーの休憩時間(706)
<以下は前回の続き>
ベビーブレスによる解放と禅の悟りとの類似:二つ目の類似
(W)
二つ目は、論理的ではうまく説明できないこと(②)です。
母親へのアンビバレンツは理論です。文章で説明できます。しかし、アンビバレンツを受け入れ解放される現象が、なぜ起きるのか、準備を重ねつつも、それまでなぜ起きなかったのかは、説明することができません。
(H)
受け入れるのは辛かったんでしょう、としか言えません。
(W)
とはいえ、アンビバレンツの受け入れ現象には、言葉では説明しきれない不可思議な感じが付きまといます。理屈としての不思議さですが・・。
辛いといえば、悟ること自体も実は苦痛が伴うのかもしれません。だから時間がかかるのでしょう。禅の悟りも、理論では説明できないことが知られています。不立文字などと言われます。
(H)
一般に仏教では、親には感謝しろ、と言われるでしょうから。アンビバレンツはね~。
(W)
怪しいですね。悟りは、母親へのアンビバレンツの内容には触れないまま、アンビバレンツ自体を乗り越えようとする離れ業なのかもしれません。
(H)
キリスト教のマリア様信仰も、母親へのアンビバレンツには耐えられないので、理想の母親像をつくっているように見えます。満たされなかった母親への愛情を、マリア様に向かって解き放とうとすることのように思えます。
(W)
三つ目は、二元論から離れること(③)です。
禅の悟りにより、人は二元論(主義)を捨て去る(鈴木大拙「禅学入門」悟り-新境地の獲得)と言われます。二元論のうち心理的なものとしては、愛憎や生死は最大のものでしょうから、母親へのアンビバレンツを受け入れ解放される現象は、そのような二元論から離れることに他なりません。
(H)
いよいよ、難しくなりました。
(W)
いえいえ、難しくありません。
母親への愛憎のアンビバレンツを受け入れると、次は生と死です。人によっては、「次は」という時間はなく、同時に起きます。母親からの愛情は生です。母親からの愛情なしは死です。それを受け入れることは、生と死のアンビバレンツを許すことになります。
つまり、アンビバレンツのうち半分の否定的な部分、愛情の不在、すなわち死が、はじめて受け入れられます。一人ぼっちの愛情なしの死です。究極の死です。その受け入れ後も、なお、私たちは生きていくのですから、そのときに、生死の二元論からも離れるきっかけが与えられることになります。
(H)
二元論などというと難しく感じます。でも、言葉は別にして、中身を聞くと、セッションで毎日扱っている内容です。
(W)
そうです。
(H)
あなたが時々言うのを聞いたことがあります。あれですね。
(W)
あれです。死にながら生き、生きながら死ぬ。
(H)
解放を、言葉で言おうとすると、そのようになるのでしょうね。
(W)
しかし、生と死は、言葉の意味が正反対ですから、そのような言い方は凸凹していて、真意が通じなくなります。そう言う時の生死の意味は、反対ではなく、同じなのです。実は、生きながら生き、死にながら死ぬ、と同じニュアンスです。
(H)
解放ですね。
(W)
四つ目は、人生の大きな変化(④)です。似ています。
母親へのアンビバレンツを受け入れ解放されると、その後の人生に、大きな変化が起きます。その人の感覚そのものが、その日を境に、大きく変わります。これも禅の悟りの場合と類似するようです。
(H)
アンビバレンツの受け入れの場合も、家族などの人間関係の改善や仕事の改善などが報告されますが、中心にあるのは、生きやすくなった、という感覚です。生きやすくなった、というのは平凡な表現で、本当は、その人の中で何かが変わるというのが、実際の感じのようです。
(W)さて、以上は、ベビーブレスによる解放と禅の悟りとの類似するところを話しました。今度は相違するところを話したいと思います。
(H)
はい
[Ⅱ]相違
(W)
私の感覚としては、類似よりも相違のほうが、より多くのヒントが得られると思います。
(H)
ベビーブレスや禅を、客観的に理解する上でのヒントですね。
(W)
はい。
母親へのアンビバレンツの受け入れる手法と、禅の手法は、次の部分で大きく相違します。つまり、禅の修行では、母親へのアンビバレンツを観る作業を、それほどやらないようです。もっとも、仏教一派の修行法として「身しらべ」があり、禅の公案には「父母未生以前の真面目」(父母が生まれる前の本当の自分とは何か)というのがあります。が、全体の修行の一部にしかすぎないようです。
(H)
禅は、なぜ母親を積極的に扱わないのか、という点ですね。
(W)
そうです。
(H)
精神分析の世界ではメラニークラインが正面から扱っていますが、フロイトご本人は扱っていません。
(W)
フロイト本人の事情が絡むと思います。
(H)
では仏教の場合には、ダルマさん自身の事情が絡んだのでしょうか。
(W)
わかりませんが、その可能性もあるのでしょうね。
その個人的な事情以外にも、社会的事情も絡むと思います。
(H)
世の中の事情ということでしょうか?
(W)
はい。禅を含む仏教は、長い時間をかけてインドから中国を通って日本へ伝わり、国教として認められるなどして、生き残ってきた事情があります。ですから治世する側(国)の要請として、当然に、両親への感謝は保持しなければなりません。
(H)
道徳や倫理ということでしょうか。
(W)
そうです。かなりの時間を通して、儒教を信じる人たちは多数派だったでしょうから、それに面と向かって反したら、長い時間は生き残れないでしょう。
(H)
大変だ。
(W)
フロイトだって性的な問題を根本的に扱うことになったので、社会から手厳しくバッシングされた経緯があります。
(H)
性的な問題を扱うこと自体が反社会的だということだったのですね。
(W)
仏教だって反社会的なラベルを貼られたら生き残れなかったはずです。
(H)
生き残る便法としての意味もあったということでしょうか。
(w)
両親のうちでも、特に母親への恩は大事にしなければならず、母親へのアンビバレンツを受け入れるというテーマ自体が、難しいものであったのかもしれません。
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