私の中の過剰なものの正体|職場への不満と母への依存3/6|セラピーの現場から(678)

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<人を許し優しくなれる>
お母さんに言われてもよく分からなかったが、ほんのちょっとだけ、寂しさのとびらを開けて出したら、確かに理屈はわからないが、人を許せる、優しくなれる感じを味わった。次の日から行った職場で・・・。嫌いだと思っている人を愛おしいと思う瞬間があって驚いた。まだまだぶれるが・・・。
<職場の人との別れが思わず心にしみる>
父親の人生、私の人生がリンクしていることが分かり泣けたことを前回セッションでやったが、職場の人とのことで同じような体験をした。
その人を、今まで私の都合のいいように、私の気分で振り回し、利用してきた。言わなくても自分の気持ちを察して都合よく動いてくれる人だった。その人に私は依存し、ひどいことをした。自分のいうことに絶対服従させてきた。右に左に操ってきた。
その人が、今回、ついに退職してしまうのだが、その寂しさもはっきりでてきた。まるで父に対してと同じような扱いをしていたな、とも思う。その人に、お別れの挨拶がちゃんとできるか心配だった。
一緒の勤務が最後の時は、まだいじけていて、自分を裏切って自分を置いて「1人だけボーナスもらってさっさと退職かよ!」と怒りながらも、寂しさもあるという私の滅茶苦茶な心の中だった。「何でアンタに!」と(矛盾した気持ちで)思いながらも、お別れの品を渡し、今までのお礼を言い別れた。その後も、すっきりしない心でいた。
<大きな花束に涙>
後日、不意にその人が職場に現れ、、私に大きな袋を渡した。見たら素晴らしい花束だった。私があげた品のお礼だといい、「今まで大変お世話になりました」というのだった。
素晴らしい花束すぎて、びっくりしていた。もらった花をじっと見ては、色んな感情が交差し、涙が、でてきた。
<お母さんと一緒に死にたい>
この花も、時間をかけて、かれていく・・・。一緒に働いている人だって、いつか離れてゆくし、親も次第に老いて、死んでしまう。本当はそこまで思ってないけど、(仮に)死んでほしいと真剣に願う嫌いな人でも老いて死んでいくのだ。
本当は弱くて一人で生きていく力のない自分が隠れ蓑にして依存している親が、弱って行くことに不安を感じ、避けて、観ないようにしてきた。
そして、自分の人生。自然の流れを止めたくて、親離れが出来ず、大人になることを拒否し、結婚もできず、産まれないまま、親にくっついて来た人生だった。男の人には全く興味がなく、お母さんが一番いい、ずっとずっとあの世でも一緒にいたいと思った。お母さんと一緒に死にたいと真剣に思っていた。
<私の中の何か過剰なものの正体>
自分が人と違う何か過剰なものがあるのは分かっていたけれど、それが何かわからず、才能か?なんて思いながら、本当の私は、こんなじゃないと、仕事の種類や、技能に捕らわれて、外側でぐるぐる、ああでもない、こうでもないと、迷って来た人生だと分かった。からっぽの自分を埋めるものを、外側に求めて探し回ってきたのが大半の人生だったと思う。
しかし、過剰なものの正体は、この間セッションで触れた傷の中にあるものなのだった・・・。
私は、今泣きながら、この事を書いているが、いつもの「こんな人生になっちゃったー」と言う泣きの涙とは違う。
<心の中がすっきりからっぽ>
きれいな花が枯れていく。人が年をとって死んでゆく。親しい人と別れてゆく。朝が来て、日がたっぷり差した暖かな日中から、夕暮れになり、暗い寒い寂しい夜が来る。貰った花を見ているだけでも、たまらない何か感情のうずきがある。
セッション後は無性に外を1人で歩いたが、(セッションで)寂しさを外へ出したら、心の中がすっきりからっぽで軽くて気持ちいい感じがした。そんな感じは初めてだった。

<<続く>>

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