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生後数か月の頃に置いていかれた心の傷|セラピーの現場から(652)

○私には生後数か月の頃に、置いていかれて受けた心の傷がある。セッションをすると分かる。私の中には母を求める純粋な気持ちがある。赤ん坊が求めるような気持ちだ。それをどうしたら良いか分からない。母はいない、現れない。純粋な求めの矛先を向ける先がない。現実の母も私の気持ちを理解しない。どうしたら良いか分からない状況に直面すると恐怖と怒りがやってくる。
○この純粋な気持ちが通らない状況は死だ。その死をのぞき込んで恐怖を感じる。
○この恐怖は絶対嫌だ。激しい怒りの圧力ではねのける。(それが私の生きてきた生き方。怒りこそが私を支えてくれた。)恐怖は痺れとともにやってくる。手や顔も痺れる。怒りを出すとほぐれる感じはあった。しかし今までのような怒りでは届かない感じがして、恨み呪い殺すと言うのが出てきた。恨んでも呪っても殺しても相手は潰れる感じは全然ない。この怒りの先には皆殺しの殺意がある。それでも十分ではない。まだ体が辛い。
○死を意味する恐怖を少しでも受け入れると体が楽になることがわかっている。でも受け入れるのは嫌だ、絶対嫌だ。受け入れて弱くなるのが許せない。どっしりとしなくなるから。テレビで誰かアスリートが「恐怖を味方にしたら」自分の壁を突破できたというようなことを言っていた。自分には無理かもしれない。
○でも嫌だいやだと言いながら、少しずつ、何かが変わっている。
○セッションで母に「どうかお願いだから殺してください」というのが出た。同時に「一人にしやがって」というのが初めて出た。寂しい、一人ぽっちだった。だんだん、本当に一人なんだ、となった。寂しい悲しい感じの一人より、一人で強くなった感じだった。
○実生活でも変化が起き始めている。普段の生活で家族に対して湧き勝ちだった怒りが湧かない。子供に対して怒りが出ない。夫も楽になったらしい。以前はちょっとしたことで、例えば約束の時間に遅れたことで「このやろう」と腹わた煮えくる感じがあった。自分の中に引けない怒りがあり、怒っていると訳がわからなくなるものがあった。それが、最近は、家族の事情が見えて、怒れない。
○自分の怒りの事情も見えてきたのかもしれない。腹わた煮え繰り返る<どうしようもない>のは、赤ん坊の頃に置いていかれて<どうしようもなかった>んだろう。家庭や職場で自分で<どうしようもできないこと>に怒る。もどかしくなる。泣きながら怒る感じ、怒りながら泣く感じがある。湧いてくる怒りと赤ん坊の頃の恐怖を繋(つな)げないように、味わわないように、している感じがある。
○繋げて味わう途中が恐怖。しっかり恐怖というのを味わっていられない。体が辛かったり痺れたりするから、それで、怖さがあるのだろうと何とか実感できるが、本当に直接にその恐怖を感じるのはできない。何か違う方向に行っちゃうかもしれない。恐怖という一点に絞れない感じ。ドップリ浸かれない感じがする。
○ドップリ浸かれないが、セッションで瞬間的に浸かった経験はある。そのとき、体が全部抜けるような感覚で楽になる。瞑想でも瞬間的には浸かり楽になったりする。恐怖が体に出たりするときに、瞬間的に恐怖に触れると楽になる感じはある。
しかしその瞬間にたどり着くまでが長い恐怖で、その恐怖にはドップリ浸かれない。凄く苦しい。
○でも本当はドップリ浸かりたい。ドップリ浸かって心底満たされたら何もかも納得できる。恐怖は絶対嫌なんだけど恐怖抜きには語れない。

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