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憎しみを感じるほど愚かな母親と自分の命のような母親と|同じとは認められない|セラピーの現場から(538)

 

多くの人にとって、自分の苦しみが、母親との関係で苦しんできたことが分かってきます。しかしなぜ、それほどまでに苦しむのか。大人になった自分が、目の前の年老いた母(今は経済も肉体的力も失っている人)によって、なぜ、いまだに、これほどまでに苦しむのか。それが分かりません!しかし、そのうちに、うすうす分かってきます。目の前にいる「愚かな母親」と、自分が知っているはずの「いい母親」が同じである、ということを<認められなくて>苦しんでいることが、かすかに分かってきます。認められることが突破する鍵です。クライン的な突破です。

でも、そもそも「いい母親」を自分は本当に知っているのか。探すことが始まります。目の前にいる愚かな母親に憎しみこそ感じるものの、その母親の中に「いい母親」を探すことは、無駄なことのように思えます。ばかばかしく思えます。しかし勘違いしないようにしましょう。愚かな母親の中にムリヤリ「いい母親」を見つけたつもりになり、妥協し、偽善をしようということではありません。
そうではありません。実は「いい母親」と言うのは、私たちが幼かった頃に<感じた>母親です。幼かった私たちは、無力であり、純真であり、どんな母親にでも、けなげに付いていきました。その母親の庇護(ひご)のもと、はじめて生きることができました。幼い子供の目に映る母親には、命を助けてくれる「いい母親」が映っていました。これは主観的なものです。実際に「いい」ことが証明されうるというような客観的なものではありません。

ヒントになる話があります。カルガモの[刷り込み]の実験(コンラット・ローレンツの実験)というのがあります。生まれたてのカルガモのひなが、初めて見た動くものを、母鳥と思い込みます。例えば、風船やおもちゃの汽車を母鳥と思い込み、懸命に付いていきます。その懸命さは、けなげで、本物の母親を慕うようで、見ているこちらの胸が痛くなります。主観的には風船は「いい母親」なのです。すばやく盲目的に付いていくことで肉食獣から命を奪われる確率が減ります。命そのものがかかっているのです。客観的には、風船は、ただのゴム膜と空気であり、いい母親などではありえません。そもそも生き物でさえありえません。しかし、命を守るために客観性は捨てられるのです。

「いい母親」と言うのは主観的なものです。幼い子供の主観です。思い出すために、通りがかりの乳母車の中の赤ちゃんの目を、覗き込んでほしい。「いい母親」は、私たち幼い子供が、汚れないまごころでつかんだものです。傷つく心をかえりみず懸命に受け入れたものです。天使のような純真さで手に入れたものです。現実でない世界に存在するものです。できの悪い母親、悪意の母親の存在では消し去れないものです。「いい母親」は幼い私たちの心の中に厳然として存在していました。そして今も心の中に存在するのです。私たち自身の命のようなものです。かけがえのないものです。

お試しの「無料60分心理カウンセリング」もあります

ホームページの記事もどうぞ⇒実績紹介>ベビーブレス体験集(本の内容)

110 探しても見つからない(?)「いい母親」(コンラット・ローレンツの実験)2/2ー幼い子供が汚れないまごころでつかんだもの

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探しても見つからない(?)「いい母親」    2/2

目の前にいる愚かな母親の中に「いい母親」を探すことは、無駄なことのように思える。

その無駄なことの中に何とか活路を見出し、妥協し、再び偽善の努力の中に戻ろうというようなことではない。
そうでは無い。そんな偽善は「いい母親」を探すということの意味を、見失っている。わなに落ちている。「いい母親」と言うのは、私たちが幼かった頃に<感じた>母親である。幼かった私たちは、無力であり、純真であり、どんな母親にでも、けなげに付いていく。その母親の庇護のもと、はじめて生きることができる。幼い子供の目に映る母親には、命を助けてくれる「いい母親」が存在する。主観的なものである。実際に「いい」ことが証明されうるというような客観的なものではない。

カルガモの[刷り込み]の実験(コンラット・ローレンツの実験)では、生まれたてのカルガモのひなが、初めて見た動くものを、母鳥と思い込む。例えば、風船やおもちゃの汽車を母鳥と思い込み、懸命に付いていく。その懸命さは、けなげで、本物の母親を慕うようで、見ているこちらの胸が痛くなる。主観的には風船は「いい母親」なのだ。すばやく盲目的に付いていくことで肉食獣から命を奪われる確率が減る。命そのもの。客観的には、風船は、ただのゴム膜と空気であり、いい母親などではありえない。そもそも母親でさえありえない。しかし、そのような客観性のことではない。

「いい母親」と言うのは主観的なもの。幼い子供の主観。思い出すために、表を通りがかりの若い人が押す乳母車の中の赤ちゃんの目を、覗き込んでほしい。「いい母親」は、私たち幼い子供が、汚れないまごころでつかんだもの。傷つく心をかえりみず懸命に受け入れたもの。天使のような純真さで手に入れたもの。現実の外の世界に存在する、できの悪い母親、悪意の母親の存在では否定されないもの。「いい母親」は幼い私たちの心の中に厳然として存在していた。今も心の中に存在する。私たち自身の命のようなもの。かけがえのないもの。

お試しの「無料60分心理カウンセリング」もあります

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