鬱と死の衝動|いらない子だった|セラピーの現場から(650)

 

○毎年ある季節になると、ひどい鬱になり、外に出られなくなる。ときどき死んでしまいたい衝動に駆られ、発作にもなる。その原因として考えられるのは、いらない子だったこと。いらない子だったと、口に出して言うことは簡単だが、正面から認めることがなかなか難しい。だから、その背後にあるべきはずの恐怖が感じられない。
○今、感じられるのは、認められたい、甘えたい、と思う本音、寂しさ、怒りだ。それらを出し切った後で、恐怖がやってくるのかもしれない。その恐怖を受け入れてようやく一人前になると、頭では理解できる。
○さて、私はいつも人前でニコニコ笑う。自分でも不自然と思うくらいニコニコする。この不自然さがひどい鬱と関係しているのかもしれない。前回のセッションではセッションの間中、あえてニコニコしないように、過ごした。そのセッションの後、ニコニコしないことを、持って帰って継続しようとしたができなかった。
無理していい子をやって来たことは随分前に気づいて来て、最近はいい子になろうと思っていないはずなのだけれど、「可愛い」とは思われたい。そうしてやっぱりニコニコしちゃう。可愛い女の子と思われたい。「認められたい、甘えたい」の変形なのかも知れない。
○このニコニコとどんな関係があるのか分からないが、別のことだと思うけれど、生活上であることに気づいた。秘密にしていたことだが、私は元々人を見下す性格で、人をバカにしている。それがとんでもない大きなことだと気づいた。例えば同じ職場で母親に近い年齢の人がいて、何かにつけて気になってしょうがない。目で追ってしまう。不快になる。そして、いつの間にか見下す。見て、凄くバカにしてしまう。その人を見ていて気持ち悪いし、こんな感情があるんだと、自分自身も気持ち悪い。関係ない他人なのに自分でも変だと思う。そもそも私は母親を見下してバカにしている。それが他人にも及んでしまうのかもしれない。母親への不満と怒りが混合して、見下しになるのかもしれない。
○今回のセッションを受けるに際して、どうも具合悪い。何かを分かりたくないのかもしれない。今までにないくらいドキドキして頭が痛い。
○今回のセッションで、前回のセッションでの気づきを、受け入れていないことに気が付いた。「いらない子」だったということが受け入れられていない。思えば、姉二人は母親が生きるためにしがみついて利用してきたが、私ははじめから利用もされない、完ぺきにいらない子だった。そうしてニコニコして生きて来た。ニコニコして元気にしていたら(私がここに存在することを)気づいてもらえるか、「いらない子」から脱せられるか、ということだと思う。
○今回のセッション前に宿題として、現状の自分の状況を、絵に描いてきた。その絵は、見下してひどい状態に描いた母と、その母から遠くに建つ細い高い塔の上に立つ小さな自分が、描かれている。小さな自分は、黒い細い線で描かれ、頭に不似合いなほど大きなリボンをつけている。
○今回のセッションをした。「私が一番」をやった。はっきり言葉にして大声でやれて気持ち良かった。私が可愛くて一番優れた人間で、要は認めて欲しい、認めて欲しいということだ。「だろうな」と思っていたがそこに自然に行けて、認めて欲しい、認めて欲しいを言い続けられた。よかった。
怒りをワーッと出せたのも良かった。最後まで怒りを止めないでできた。
○次の日のセッションでは、「認めて欲しい」や怒りは、影を潜めた。ある程度満足できたのかな。出て来たのが「抱っこー」だった。「認めて欲しい」より、もっと感覚的子供的だ。寂しい、抱っこして欲しい。姿は見えないけど母がいるのは分かる。どんなに泣いても叫んでも母は無反応。それを感じていらないんだなと思ったが、「頭で」考えてしまった。やっぱり本当にはそこに行けない、いらないのを受け入れられない。そこに行くのが怖いんだと分かる。頭では理解しているつもり。いつも分かったつもり、受け入れたつもりでいる。受け入れるのが怖いから「つもり」にしていたんだろうな。恐怖もはっきり感じられない。感じられないくらい怖いんだろうなと・・・。「ただ怖い」ところへ本当には行けない。
○実は母に頼んで、祖母のところに連れて行ってもらった。どうしても祖母に会いたかった。祖母は施設に入っていた。可愛かった。祖母は母を傷つけ、傷ついた母はそのため私を傷つけてしまった。母は私を直接に傷つけたから可愛くないが、祖母は直接でないから可愛いい。愛おしいと感じられる。よかった。

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