ベビーブレス体験集(本の内容)
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
山田洋明(仮名)28歳 男性教師
山田さんは、以前に神奈川県の中学で理科を担当していたが、一クラスだけ数学も担当した。そして、そのクラスだけが数学の成績が悪かった。そこで、補習することにした。ところが、成績が上がると、逆恨みする教師が出てきた。どうも、補習したことが「ずるい」ということのようだった。試験の「問題も教えたのじゃないか」と言いがかりを付けてきた。実際にありもしないことを言われ、頭に来た。ふざけるんじゃないと思い、その教師とは一週間口を聞かなかった。すると、周りの他の教師は、「相手は先輩の教師なんだから、謝るべきだ」「あんたが悪いのだから謝るべきだ」といい、山田さんは、逆恨み教師の自宅まで行き、玄関先で土下座をして謝った。いやになった。早く転勤したくなった。
また、自分と親しかった職員や、その場にいない他の教師の悪口を、周りの一部の教師が言うのを聞いた。さらに、自分のことについても、他の教師が悪口を言っていたことも伝わってきた。ますます、いやになった。
ある学年主任に対しても卑怯な感じがして、始めから嫌だった。学年主任としての仕事を、自分が直接にやらずに、みんなにやらせた。また、その主任は上司に対しては、媚びを売って良い態度だけを見せ、同僚に対しては、冷淡な態度を見せる人だった。
あるとき、文化祭のために準備してあった景品が、盗まれた。その学年主任に「あんたがだらしないからだよ」「あんたがいけないんですよ」と、担任クラスの生徒たちの前で言われた。学校そのものに対して否定的な気持が湧いてきた。
そのときの担任クラスが荒れた。クラスの女子生徒の60%が万引きをした。他のクラスでも万引きがあったが、すべて自分のクラスが悪いという雰囲気になった。万引きした生徒と一人ずつ面接したが、状況はあまり好転しなかった。学校に行きたくない気持だった。担任クラスの子供たちの顔を見たくない思いだった。
校長は極端な性格だった。気に入った教師には良くするが、そうでない教師にはきわめて冷淡な気がした。 教師間の人間関係も悪く、担任クラスの生徒との関係も悪く、最悪の状態だった。数日学校を休んだりした。早く病気にでもなって休職をとりたい気持だった。今思えば、そのころの自分は、自分の逃げ場ばかり考え、困難や辛さに耐える力がなかったように思える。
次の年に学級担任を外された。これで自分の教師としての生命は終わったと、がっくりすると同時に、いくらかほっとした気分もあった。
しかし、他の教師が学級担任としてうまくやっているのを見ると、自分はこのままではいけないなと思った。何とか自分の心を奮い立たせなければいけないなと思った。
以前にあるセミナーを受け、ロールプレイをみんなの前でやったが、みんなの前でやることに抵抗があった。しばらくした後、あちこちにあたりを付け、このライフリーディング、ベビーブレスを受けることになった。
1998年6月
8才、9才の頃の事を想い出した。父に対する思いだった。憎しみではないが、自分の気持ちを「分かって欲しい」と言う思いだった。父が母を責める場面が出て、母が可哀想と言う気持だった。
7月 山田さんが中学生の時の怒りが出て、悔しくて泣く。 そして、認めてほしいと言う気持が出る。小学の時の入院し、腎臓が悪いという理由で母親から運動を禁止される。ももひきタイツをはけといわれる。また、世間に聞かれたくない物事について、嘘をついて息子を守ろうとする母がいやだった。人を信用するなと母が言うのも嫌だった。
8月 個人セッションのベビーブレスで初めて感情の殻が破れる。クッションを父代わりにして殴る。満足する。
10月 父親にこうして欲しかったと言う思い、父への怒りが出る。その後、父は5人兄弟の長男で大変だった、父は父と思う。
12月 淋しかったと言う思いが出る。あるとき母が交通事故で入院し、食事は毎日店屋物で嫌だった。その事を言うと、父がうるさいと怒鳴る。母が居なくて淋しかった。胸の中につかえがあり、まるで石炭の固まり(不安恐怖のようなもの)のような感じがし、吐き出したくてげーげーと、吐く動作が起きる。父に対する怒りが出る。母に甘えられなかったのはお前のせいだ、と言う思い。真っ黒なかたまりが1/6ほど吐き出せた感じ。自分のエネルギーと外界の間に石炭の固まりの層がある。でも吐けて、すっとした。この固まりさえ砕けば、自分の何かが変わる気がする。
1999年1月 ベビーブレスを始める前に、普段の生活は最近「調子良い、落ち込みが少ない」と報告する。 ベビーブレスでは、始め袋に3つ分、吐く。父に対する怒りと悲しみだった。吐いたときに大きな固まりをはけた気がした。小さいころ父親に甘えられたつもりだったが、ちがう感じだったとわかった。母親が入院した頃から、父が母につらくあたり、山田さんは父に恐怖を抱居た。父が「抱っこしてあげる」といっても、抱っこされなかった。拒否した。父は「怖い人」なので近寄れなかった。甘えたいのに甘えられなかった。今度「父に甘えたくなったら、抱っこしてほしい。」と希望する。スタッフの膝枕で嬉しそうだった。
3月 ベビーブレスを始める前に山田さんから次のようなの報告があった。一時期何もしたくなく、気力だけで学校へ行くほどに落ち込んだ状態が2週間程度続いた。2月の中頃のことで、転勤の希望が入れられるかどうか、今の学校では(校長やその他の教師とは)やっていける自信がない、ということが原因。落ち込みが激しく、自動車事故を起こしそうになるほどボーとすることがあった。また、1週間まえ生徒とトラブルになったときに、突き飛ばしてしまった。今までにないことで、まるで自分でないみたいだった。3日位落ち込んだ。その後、上向きの気持ちになっている。 ベビーブレスでは父親のことが出てきた。ベビーブレスの中で父親を殺した。恐怖の源は父親である。父親が怖い、怖い。父親に対する怒りがある。自分の精神的な問題の原因は、お前(父親)のせいだと言う気持がある。父親に対するおどおどした態度は、自分だけでなく、母親も同じだった。父親を殴って首を絞めて殺した。その直後に、脱力感があった。スタッフにもっと(呼吸を補助するために)胸を押して欲しかった。 その後、父にかまって欲しかった、もっと遊んで欲しかったと言う気持が出た。いろんな所に連れていってほしかった。父に対する悲しさ、愛しさがあった。
4月 母のことが出てくる。羊水の中に入っていったら不安と恐怖の黒い海だった。母は、お前(山田さん)なんか生みたくない、落としたい(堕胎したい)という気持だった。そういえば実際に「あんたなんか産みたくなかった。子供は1人で良かった。」と言われたことが過去にある。郷里に帰った時に、母は、自分(山田さん)のことを間違えて兄の名で呼んだことがあった。自分も産まれたくなかった。不安でげーげー吐いた。母親の口臭の臭いが思い出されて、気持ちが悪くて悪くて。そこで今回のベビーブレスは終わりになった。
母は望んだ結婚でなかった。母親に愛されてきたと思っていたが、実はそうではなかった。不安と恐怖があった。怒りは出なかった。怒りの前に何かあるようだ。父親以上に、自分にとって根深いものがある。黒い幹の根っこが。
5月 母が出てきて、自分(母)が可哀想という。我慢してきたという。それに対して、怒った。「可哀想」と言って、自分の都合のいいことしかしない。許せない。今までやってきたことは、自分の都合のいい方にやってきた。しかし、母に対する怒りの反面、母を信用してきた自分に後悔する。母に同情してきてしまった。母の言うことを聞かなくちゃと思ってきた。許せない。お前(母親)みたいなずるいやつはくたばれと思った。自分(山田さん)はくじけそうになると病気になりたいという気持ちがある。母が看病をしてくれるので。また、人に対しては反論できない性格がある。母のいうことを聞いてきた影響か、と思う。誰かに怒られると、母に怒られているようで怖い。母の事をベビーブレスの中で消化するにはしばらく時間がかかりそう。
6月 母親のことを思い出す。腹が立ったことを想い出した。山田さんが高校時代、赤帽のおじさんに道を教え、そのお礼に饅頭をもらった。ところが母に「そんのものもらうんじゃない」と怒られる。饅頭を投げられた。また、お金に困っている人に、図書券をあげたことがあった。ところが、「そんなことするな」と母に怒られた。「追い出すぞ」とも言われる。母は誰も信用していない。 そればかりか、周りに対して嘘もつく。山田さんの大学入試失敗を隠した。山田さんが全ての大学を落ちたときに、世間に対してかっこうわるいということで、私立大学には一つ受かったことにした。更に、母は物や金で山田さんを釣ることがあった。まだまだいっぱいある。残りは3/4位ある。 思えば母には山田さんのことを素直に認めて欲しかった。素直に愛して欲しかった。ところで、この前、母と喧嘩したときに「くそばば」と言ってやった。初めてのことだった。
7月 ベビーブレスを始める前に山田さんから次のようなの報告があった。
母親からはあんなに電話があったのに、今は全くかかってこなくなった。せいせいしている。たまにかかってくるときは、父親が母親に「かけて見ろよ」と催促しているようだ。 ベビーブレスでは、小学校の頃が出た。「淋しいな」という気持。みんなはどっちボールをしている。自分は見ている。体育の時も見学が多い。母が、「あんたは体が弱いから体育は見学していなさい」という。「淋しいよ、淋しいよ」。母は聞かない。気持ち悪くなる。吐く。何で自分だけこんな思いをするんだ。孤独で淋しい。自分がこんなになったのは母、あんたのせいだ、と言う気持。母をやっつける。
そうしているうちに父も出てくる。父は責任を母に押しつける。母に「お前のせいだ」という。父も勝手だ。みんな死んでしまえと、かなり暴れた。スッキリした。母を直接にやっつけたのは始めてだった。
以上のようにして、山田さんは一年数ヶ月の間、ベビーブレスを続けた。一ヶ月に一回弱のペースである。山田さんの雰囲気からも、内部の何かが改善されてきた感じがわかる。以下は、今までを振り返っての山田さんの感想である。
教師間の人間関係や、生徒との関係でトラブっていた頃は、自分に余裕がなかったことがわかる。自分のことばかり考えてしまった。自分の責任と言うことばっかり考えていたような気がする。何に付けてもそうだった。授業を終わらせなければならない、生徒の成績を上げなければならない、遅れている授業のペースを進めなければならない、早く対処しないと父兄に騒がれる、怖い、どうしようと考えた。
例えば、学校の学級経営で、自由にできる時間がある。子供たちはレクリエーションをやりたいと言う。でも、自分は遅れている授業を取り戻したいので、認めてやれず「授業が終わらなくなると大変だから、レクレーションはできないよ」と言っていた。
今では、そういう堅苦しい考えが、段々なくなってきた。もう少し余裕があってもいいんじゃないのか。完璧でなくても、つまづきながらでも、いいんじゃないか、と思うようになった。そう思う感覚でいることの方が、結果もいい方に出ることがわかってきた。
父親に押さえつけられていた自分の恐怖が体感でき、気持がいやされてきて、自分が変化し始めた。何かにつけて存在していた「怖い」と言う感じがなくなってきた。周りのことばかり気にしていたら、自分を見失ってしまう。自分がこれだと思ったら、そのことをやってみようと思うようになってきた。
そして、周りが見えるようになってきた。周りの先生も苦労しているんだな、自分とお同じように悩んで涙を流している先生もいる。今までは、自分しか見えなかった。
また、前よりは物事をはっきり言えるようになった。自分にとっては、とても大きなことだった。以前は、変だなと思いつつも黙っていたことようなを「これは違うんではないですか」とはっきり言ってしまう。
また、学校行事で率先して新しいことをやろうと提案するようになった。例えば、学校行事で行うスキー合宿で、夜は自由時間だけだった。そのときに「出し物をしたら」と提案した。自分がやってみたいと言う気持になっていた。以前だったら「面倒くさい」「周りに何を言われるかわからない」という気持だった。今は自分がとても楽だ。
また、授業中に雑談ができるようになった。話しかけてくる子供のいうことを聞けるようになった。雑談の中である生徒が「この学校に10年位居なよ。そうしたら卒業していつでも先生のとこるに遊びに行けるから」といってくれた。嬉しかった。
授業自体でも、気持に段々余裕が出てきた。こんな余裕は、以前はなかった。以前は、シナリオ通りに授業を進めて、何とか終わらせなければならないと言う感じだった。今思えば、型のはまった授業だった。
あるとき、教室で生徒に「山田先生(独身の若い女性教師)が廊下を通っているよ」といわれ、思わず廊下を見てしまうと、みんなに冷やかされた(山田さんも独身)。冷やかしやすい、親しみやすい感じを生徒たちは受けているようだ。
休み時間などには、山田さんの肩などを生徒が触ってくるが、悪い気がしない。以前だったら嫌な感じがして「なんだこの野郎」と思わず思っていたかも知れない。
男子生徒は特にかわいく思えるようになった。女子生徒はまだ少し抵抗がある。べたべた寄ってくると気が引けてしまうことまである。母親との関係が(ベビーブレスの中で)まだ済んでいないからだと思う。
同じように、同僚の男性教師には怖い人は居ない。自分でも不思議なほどだ。しかし、女性教師には苦手を感じる。
最近、校長に「前向きにものを考えられていいね」と言われ驚いた。また、最近、チャレンジしていることがある。中学生も純真で中学校の教師もやりがいはあるのだけれど、実は、自分の初心は高校の教師になることだった。そこで、高校の教師になる試験にチャレンジしている。校長も嫌な顔もしないで認めてくれた。
前任の学校で、自分が担当する卓球クラブに所属する人なつっこい男子生徒が居た。その生徒が一年のころは、かわいい生徒と思うくらいだった。その生徒が二年の説き、自分は学級担任を外れるが、そのころから、その生徒がべたべた寄ってくるようになった。「ばかにされているのかな」と思うほどだった。あるとき、その生徒を含めた数人の生徒は、山田さんの家の留守電話にいたずらを入れた。「おまえバーカ」「アーホ」「くたばれ」。頭に来た。その電話を学校に持っていって、その子に聞かせた。「こんなことをする生徒は卓球クラブには要らない」といった。その生徒は、俺やめてやるー、といって、卓球クラブに来なくなった。
その後にベビーブレスで自分が変わり始めた。その子に謝った。「先生もおまえにきつくあたったけど、先生にもいけないところがあった。部活にちゃんと来てくれよ」。
それからしばらく経ち、夏休みに入る前にその生徒から(山田さんの自宅に)「泊まりに行っていいか」と聞かれ、実際にその生徒を含む3人の生徒が、山田さんの自宅に泊まりに来た。その生徒たちと仲良くなり、やがて自分の実家などに連れて行くほどになった。彼らは卓球クラブでも中心的に活躍してくれた。
今思うと、留守電話のことは、自分に余裕がなかったなと思う。その生徒はかまって欲しかったのに、聞いて欲しいという気持だったのに、何でそのことに気づいてあげれなかったのだろうと思う。その生徒とは、いまでも親しくしている。
帰省して父親に会っても以前は何にもしゃべらなかった。自分もしゃべりたくないし、父親も自分にしゃべってこなかった。
今は、不思議なことに、父親の方から話すようになってきた。「元気か」「子供(生徒)たちはどんなだ」。ある帰省のとき、山田さんがCDの売場に行く用事があるときに、父親が「詩吟のCDが欲しいからいっしょに連れていってくれ」と言い出し、いっしょに行った。父親といっしょに歩いたのは7~8年ぶりだった。
以前は、母親から頻繁に電話があった。お米や食品などを、たびたび送ってくれたり、帰省したおりに持たせてくれたりしていた。5千円1万円と現金を渡してくれることもあった。山田さんももらう抵抗がなかった。
ところが今は、「なんか違うな」と思う。ほんとだったら、自分の方が上げなければならないのに、と思う。母親に心を支配されている感じだ。電話も欲しくない。母親は、電話で「ガスの元栓は閉めたか」「部屋は掃除したか」「洗濯はちゃんとしたか」「今度いついつ(山田さんの自宅へ)行くから」などと言ってくる。そして、母親は、来ると山田さんの部屋の中をみーんなかたづけてしまう。どこに何があるのかわからなくなってしまう。ありがた迷惑だと感じる。
学級担任を外され落ち込んで相談したときなどは、母親がかえって妙に元気になった感じがした。「学校はちゃんといけ」「頑張ってるか」などとしきりにいう。余計なお世話だと思う。山田さんも何とかしなければと必死だったのに、そういわれると、よけいつらい。何を頑張っていいのかわからなくなる。頑張れなんて、無責任な言葉だ。だから自分は、子供にはあんまり使わないようにしている。
あるとき、思わず母親に「うるさいんだよ」「かけてこなくていい」と言ってしまう。母親は「じゃおまえには何もしてあげない」。それから、あまり電話がなくなった。電話がないことが、心地いい。今は母親にあまり会いたくない。
体重が12キロ減った。体調がいい。別に痩せようと思って、努力したわけではない。それまでの太りすぎの感じがなくなった。心と体が連動している感じだ。気分も軽くなったし体も軽くなった。以前は2人前くらい食べないと気が済まなかった。たくさん食べて安心していた感じがあった。今はそんなに食べれない。
ベビーブレスの中で父親との関係を約一年ほどやっていました。そして父親との関係はほぼ完了した感じがあり、その結果、仕事的なこと、教師間の人間関係や生徒との関係の問題が改善されたようです。山田さんは、周りのことが気にならなくなってきた、楽だ、自分にとって大きいこと、と言っています。特に男子生徒や男性教師との関係が改善されてきました。
母親との関係は、父親との関係が完了した後に初めて現れました。この1、2回のベビーブレスは、母親のことをやっています。今、母親との関係と格闘している最中に思えます。自分は悪くないのに不覚にも土下座させられてしまった事件の陰にも、内的な基板の弱さ、すなわち母親の影響が感じられます。母親は、山田さんが小さい頃に常々「父親には逆らうんじゃない、あんな親父持ったのは仕方がないんだから、何があっても謝るしかないんだ」と言っていたそうです。父とは、例えば、世間とか先輩とか強いものを代表する意味があります。また、母親自身が、ひどく世間を気にする傾向がありました。
母親との関係は父親との関係よりも、山田さんに与える影響は濃厚であると思われますから、山田さんの改善、変化は今後、ますます著しいと思われます。
また、母親との関係が改善されれば、女生徒や女性教師に対する苦手意識が改善されると予想されます。尚、この予想は、山田さんの認めるところです。
このように学校教師が自分に向き合って自信を取り戻していくことは、たくさんの生徒に影響を及ぼす立場にいることを考えると、とても大きなことだと思われます。弱さを持ち悩んでいる他の教師に、何か伝えることがありますか、という問いに、山田さんは以下のように答えています。
「自分のことだけを考えないで、周りの子供の気持ちを考えて行動できるようになって欲しい。その為には、まず自分のことを知るべきだ。例えば「人に優しくしなさい」と言われても、自分のことを理解していなかったら、どうしていいかわからない。まず、自分がいろいろなことを経験して、地道に努力していくことだと思う。苦労することも大切だと思う。やはりどんな苦しいことにも逃げてはいけません。また、結果をあせって出さなくてもよいと思う。ゆっくり歩いていけばいい。」
何事も経験だと思う。あわてなくてもいいし、完璧でなくてもいい。」
林 : 「このケースの山田さんのように、学校の教師を職業にしている人達が、カウンセリングやベビーブレスにもよく来てくれます。その人達の抱える問題は、生徒との関係、教師間の人間関係、父母との人間関係などが多いようです。私も長い間、養護学校などで教師をやっていたので、理解できるのですが、教師は、生徒を評価する側に居ると思われがちですが、意外にも、逆に自分に対する評価に悩まされてしまうのです。生徒からは好かれているか、ばかにされていないか、先輩や同僚の教師からは教師としての力があると思われているかどうか、父母からはいい先生だと見られているかどうか、そういう立場に置かれています。人からの評価にいつもさらされている職業なのです。自分への評価に苦しむというのは、教師一般が避けられない問題だという感じもするのです。」
雲泥 : 「一部の教師だけの悩みではないのでしょうね。」
林 : 「ですから、このケースのように、一度、自分はだめな教師だと、思いこんでしまうと、どこまでも、追いつめられていく可能性があります。山田さんのように、人からの評価を気にする性格を、両親との関係で幼いときから形成してしまっている場合には、ますます苦しいことになってしまいます。」
雲泥 : 「自分で自分自身を追いつめるという面もあるんでしょうね。」
林 : 「そうですね。もともとが教師というのは、生徒にものを教えて、生徒を評価する立場にあります。ですから、自分自身が立派でなければならない、偉くなければならない、尊敬されなければならないと思ってしまいます。昔は、警察官と教師は、とても権威があり、自分の親よりも偉かったですね。今も、その名残のようなものがあって、教師は自分自身への評価が厳しくなってしまいまいます。
もちろん、自分に厳しくプライドが高いことが、教師としての誇りになるし、つらい状況でも何とか頑張れるし、自分自身を成長させることにもつながります。そして、プライドとともに困難を乗り切ったときなどは喜びも大きいものになります。このような喜びこそが、教師を支えているのかもしれません。
しかし、私も教師の頃そうでしたが、プライドがとても高いために、だめと評価されるとずたずたに傷ついてしまいます。」
雲泥 : 「つらいですね。」
林 : 「だめと評価される中身には、人間性の問題が大きいですね。それで、教師はよけい困難な状況に陥る。どんな上手な授業ができるかというより、山田さんのように、雑談ができるようになった、生徒が冷やかしやすい先生になった、というようなことのほうが重要なんですね。生徒とどういうふうに話ができるかとか、つまり人間性です。人間としてどう生きるかという様なことにも通じます。片伯部さんがよく言いますよね「教師だって人間だよ」って。あれです。
しかし、自分の人間性なんておいそれと変えられるものではありません。授業の技術ならば何とかできる。でも人間性じゃ・・。教師の可哀想な部分でもあります。いかに人間的であるか、というような教育は受けていないのですから。」
雲泥 : 「もっとも、講義を聞いたり本を読んだりだけの教育だけでは、人間性なんて変わりようがないかもしれません・・・。」
林 : 「それなのに、現場に立って精神的に荒れている生徒を前に、何とかやらなければならない。自分の人間性に自信のようなものがなかったら、とてもやっていけませんね。」
雲泥 : 「何か小手先の問題じゃない、ということですね。」
林 : 「山田さんが取り戻していったのは、まさに人間性の部分なんですね。学級経営のノウハウでもないし、対人間関係のノウハウでもない。自分の人間性がどうなのかという視点に、教師は立たなければなりません。自分がどう評価されるがかばかり気にしていては、そこに立てないのです。」
雲泥 : 「元教師の立場から、人間性とは簡単にいうと、どういうことですか。」
林 : 「人間性とは、悲しいことに悲しめて、嬉しいことに喜べて、怒るときは怒ることが自然にできること、だと思います。」
片「授業の技術より、教師の人間性がかなり重要だと思いますか。」
林 : 「例えば学級経営は、当たり前ですが、もともと人間と人間のお付き合いの上に成り立ちます。」
雲泥 : 「教科の授業だけだったら、塾の先生に優れた先生がいますからそれをビデオにとって各校に配ればいいでしょう。日本で一番上手な先生が一科目に一人で十分かもしれません。そして、インターネットか何かのティーティングマシーンがそのうち開発されるかもしれませんね。」
林 : 「それに、授業自体が問題という先生はそんなにいないのです。授業、すなわち教えるという作業はできるが、話し合いができないという悩みが多いです。道徳や学級活動の時間の話し合いができない。生徒の気持ちが分からない。これが学級崩壊に繋がってしまう。つまり人間関係なんですね。」
林 : 「教育の現場で教師に人間性が要求されることは、教師自身がヒシヒシと感じているはずです。しかし、対策は全くとられていないようです。教師自身が偏差値教育を受け、大学では知識ばかりの勉強をし、難関な教員試験に受かるために、受験勉強ばかりします。人間性を養う時間などありません。教師という職業は、知識の勉強で勝ち得た職業なんです。
まず、このような教師という職業の特性を、教師自身が理解しないと、本当の問題解決には入っていけないと思います。「教師だって人間だ」と言うことはよく分かっているのですが、いつの間にか先生という服を着てしまい、その服に支配されてしまうのです。」
林 : 「テレビドラマの熱血先生は、感情が自由に動く人として描かれています。泣いたり笑ったり怒ったり。」
雲泥 : 「熱血教師が、ある意味では教師の理想だと誰もが知っているから、そんなテレビドラマが作られるんですね。」
林 : 「悲しみや喜びなどが、自由に出せる。だから生徒とつながることができる。しかし、熱血先生が理想だと知っていても、どんな方法で理想に近づくかが問題です。」
雲泥 : 「熱血先生のドラマを見て、あるいは小説を読んで、よし分かったぞ!明日から自分もそうなろう!なんてうまい具合には行かないでしょう。では、熱血先生をいつも頭にイメージして日々、イメージに近い言動を行うように努力すれば、そうすれば時間がかかってもいつか熱血先生に変われるかと言うとそうではないでしょうね。」
林 : 「嘘っぽくて、その前に生徒に見抜かれてしまうでしょう。」
雲泥 : 「では、どうしたらいいか。自然に自分自身の中から変わるような手法が必要になりますね。」
林 : 「その手法として、ベビーブレスはとても役に立つと思います。自分の中に抑えていた感情を復元し再体験していけば、そうすれば自然に人間が変わってきます。」
雲泥 : 「プライドの高い人、つまり教師が、「人間性」などといわれたらショックでしょうね。」
林 : 「ショックですね。人間そのものを否定される感じがあるでしょうね。でも本来、教師の職業は、前にも言ったように、人間対人間なんです。」
雲泥 : 「一般の企業で毎日コンピューター相手に仕事をする場合などよりですね。」
林 : 「企業でも結局は人間性だと思いますよ。私は、企業のセミナーをよくやりますけど同じですね。」
雲泥 : 「「いわんや教師をや」というところですか。
プライドの高い教師が、あなたの人間性が問題だなどといわれて、人にリードされるセミナー例えば、ベビーブレスなどにやって来れるものでしょうか。」
林 : 「・・・・例えば、自分の学級経営がまずくなってしまう、その理由は何なんだろうというところに、誠実に居て欲しいですね。」
片「人が人にリードされるといいうことに対する抵抗もあるのではないでしょうか。悩んではいても自分は教師だと思っている人が、自分の人間性を高めるために、神様でもない普通の人がリードするセミナーに来るものでしょうか。」
林 : 「私もプライドの高い教師だったんです。ところが、身内の死を契機に死ぬほど落ち込んで、こんなに落ち込む自分が教師なんかやっていては申し訳ない、とさらに落ち込んだのです。そして、内省やブレスワークなどを通し自分を見て、自分を取り戻していった。落ち込んでいる自分にOKが出せたのです。生徒の前でも落ち込んでいれました。立派な教師であるという看板を降ろしたんですね。嬉しいときは嬉しいし、嫌なときは嫌だし、落ち込むときは落ち込む普通の人間なんだ、とね。先生である前に人間なんだと。すると不思議に生徒との関係がほんとうに良くなっていった、という少なくとも実績があります。いつの間にか、生徒からの人気投票でNO1になってしまった。生徒は良く見ているのですね。」
片「教師である前に、一人の裸の人間で居れるという感じですね。人間どこかで、自分のことをやらないといけないんですね。ベビーブレスの中では素っ裸になれ自分の全部をさらけ出せるということですね。」
林 : 「なれますね。赤ちゃんになったり、子供になったり。淋しかったり、悲しかったり、怖かったりして。」
雲泥 : 「自分の人生で、やり残してきたことが、起きてきますね。」
林 : 「そう。そのときには「先生」はいなくなる。一人の裸の人間がそこにいる。」
雲泥 : 「人間になれる。」
林 : 「そのとき教師という服、仮面を脱げる。面白いことに、脱いだことでいい先生になってしまうのです。」
雲泥 : 「それと、人が人にリードされどうして人間性が高まるかということを、疑問に思うかもしれません。別に神様でもお釈迦様でもない。ベビーブレスといっても、なにも崇高な大理論や大倫理が講義される訳でもない。ただ「呼吸をして下さい。限界がやってくるまで呼吸をして下さい。」というだけ。単にそれだけなのに、なぜ人間性が回復するのか。ちょっと考えると、不思議ですね。」
林 : 「本当のことは自分が知っているということでしょうね。誰かに言われなくても。
教師という仕事は、いつも人を指導している仕事であり、「指導」という枠組みでものを見るから、誰かに指導されたくて、やってくる教師がいるかも知れません。でも、例えば学級経営をどうするかの指導をするわけではありません。その人の中にあるものが目覚めていく。自分で分かる。指導というならば、自分に自分で指導するということでしょうね。」
雲泥 : 「そう。ベビーブレスの中で、例えば、呼吸しても自分の中に入っていけないという経験をすると、自分に嘘やっているぞ、なんか変だぞ、変な人間なってしまっているぞって、何となく分かる。そして、あるとき感情が噴き出して、いわゆる「自分の中に入る」という体験をし、やがて、何か抜けていくような体験をする。なにも言われなくても、自分に何が起きているかが、分かる。自分の人間性が回復していっていることが自分で分かってきます。」
林 : 「その「分かる」という感覚を持っているぞというのを、先生が教壇で生徒の前に立ったときに、生徒が見抜いてしまう。「分かる」という感覚があると生徒達が信頼していくのです。」
林 : 「この山田さんのケースにもベビーブレスの中で「父親を殺す」「絞め殺す」などの過激な場面があります。もちろん、イメージの中だけの出来事なんですが。普通の教師は、これを読んでこんなことはやりたくないと思うでしょうね。」
雲泥 : 「なぜでしょう。」
林 : 「教師は、前にも言いましたが人間的に立派でなくてはなりません。自分の両親を尊敬できる人が立派な人なんです。自分の親はいい人です、という建前に沿っていなければならないから自分の親は、いい親だと思いこもうとします。自分の親のことで苦しんでいるなどと、弱みを見せてはいけないんです。だから、二の足を踏むと思います。
しかし、自分の人間性を回復するためにはどうしても必要な場合があります。その後で、ほんとうの意味で例えば「父に対する愛しさ」が沸き起こってくる。この「愛しさ」は、本物です。」
雲泥 : 「父に対して表面的な尊敬をしていたのでは、この本物の「愛しさ」は起きてこないですね。」
林 : 「そうですね。」
雲泥 : 「そして、本物の「愛しさ」を知れば、生徒に対する本物の「愛しさ」も起きてきます。」
林 : 「ブレスワークの中だけであっても「殺す」なんて勇気が要ると思います。それでも自分のために勇気を持って欲しいですね。
山田さんが、そのようにして父に対する怒りを出し始めたとき、「出せたのは1/6です」「 外界との間に固まりの層がある」と言いました。感激したのを覚えています。山田さんが、自分の感性を信じ始めた。だから彼はベビーブレスを続けた。そのときから、彼は、いい教師になるにはどうしたらいいかではなくて、自分を取り戻すことに夢中になり始めていた。まるで、よし俺は人間性を回復するんだ、と言わんばかりでした。自然にそうなっていったのです。」
林 : 「教師は学級経営などに行き詰まっても、ギリギリまで自分で何とかしようとします。教え方の本などを読んで頑張ろうとするのです。どうにもならなくなって始めてカウンセリングやセミナーを受けようとします。」
雲泥 : 「そんなにギリギリまで頑張らなくていいですよね。疲れたから「ちょっと居酒屋に行って一杯飲むか」というような程度の気楽な気持で来て欲しいですね。」
雲泥 : 「生徒は教師の人間性に惹かれるし、教師の人間性に左右されます。」
林 : 「ところが、教師は自分の人間性なんて教育されて来ていないんだから、生徒に人間性なんて教育する責任はないんだ、って説もあるんです。」
雲泥 : 「そうなんですか。しかし、生徒の側から見ると、先生だろうと、同級生だろうと、親だろうと、みんな人間です。それらの人間関係の中で、自分の人間性や大切なものごとを学習する。教師が、私は人間性は大学で教育してもらえませんでしたし、親から立派な人間性をもらった覚えもありませんし、勉強を教える授業だけは自信がありますので、その授業の部分だけで勝負させて下さい、なんて仮に言ったにしても、生徒は誰も聞かない。変な「人間」としてちょっかい出してくるでしょうね。」
林 : 「その人間性というベースがなくて、教科だけ教えるというわけには行きませんね。」
雲泥 : 「教師の人間性は、40人近くの生徒に大きな影響があります。だから、そうであるべきかどうかは別として、事実上、教師には全人格的なものが求められますね。」
林 : 「例えば、学級崩壊などにも教師の責任が問われることが多いです。」
雲泥 : 「でも荒れる生徒は、学習すべき基本的な人間関係がうまく行ってない場合が多いですね。今の世の中、豊かな人間関係が手には入りにくい。社会的なものがある。例えば、核家族。一般的に親に精神的な余裕がない。物理的にも精神的にも。親が子供とがあまり一緒に居れない。母親も共稼ぎだったり。父親はリストラ。そうでなくても、傷が親から子へ次々に伝えられる。理想的な家庭など少ない。傷を受けたまま40人近くの生徒が教室にやってくる。教師は、生徒が荒れるのは家庭の責任だ、という。昔は同じような授業をしても学級崩壊などなかった、と。言ってしまえばその通りです。一人の教師に何ができる、と。その通りです。
しかし、それでも生徒は毎日生きていて学校にやってきます。一年中ほとんど毎日、一日の大半をいっしょにいます。生徒は、自分の傷を教師に投げかける。生徒の家庭環境が十分でなければないほど、教師は嫌でも生徒の傷に直面する。本で得た知識などはあまり役に立たない。生徒もそんな知識などは欲しくない。頼りになるのは教師個人の人間性のみ、ということになる。教師の人間性がいつも試される。責任かという問題ではなくて、事実としてそうなりますね。
もし、その教師が自分の中の傷を見て、自分の人間性を回復した経験があったなら、生徒の持つ傷を理解でき、生徒がなぜ荒れるのかが分かります。生徒は助かるでしょうね。」
林 : 「助かりますね。教師は、弱みを出したら生徒がいうことを聞かなくなると思いがちです。でも違います。弱みを出せる先生には、生徒は人間味を感じるのです。人間味を感じる先生の言うことは聞いてしまうのです。それにしても、多くの教師は教材研究やいろんな仕事で忙しすぎます。一番大切な自分の人間性を高めるチャンスなんて、めったにありません。責任なんかとれないですよ。」
林 : 「教師は、ベビーブレスをやっても、自分の中に入りにくいですね。立派な先生でありたいので、頭に来ても怒ってはいけないし、苦しくても弱音を吐いてはいけないし、悲しくてもわーわー泣いてはいけないと思っています。」
雲泥 : 「本当に、つらいですね。」
林 : 「どうか、そんなに頑張らないで欲しいですね。教師は、影響力が大きいです。しかし、教師自身にも影響力が大きいことは分かっています。だからこそ、苦しくてもすぐにいい先生をやってしまいます。それで、ジレンマに陥る。しかし、教師が一人変わったら、40人の生徒が変わる可能性があります。私は、自分が教師だったこともあって言うのですが、教師は素晴らしい仕事です。だからこそ切にお願いしたいですね。人間性を磨いて欲しいです。」
雲泥 : 「今の教師は体罰厳禁ですね。ベビーブレスで自分の中に入れないというのは、もし自分の感情をありのままに出してしまうと、怖いということもあるのでしょうか。」
林 : 「そういう感情が出すぎてしまうという恐怖もあるでしょうね。感情のおもむくままなどにすると、抑制が効かなくなって、生徒を殴ってしまうという恐れを感じる場合もあると思います。」
雲泥 : 「しかし、生徒を殴ってしまうなどというのは、普段から自分を表現できず自分を抑えているから、あるとき制御が効かなくなって暴発する、というのが本当ではないのでしょうか。自分の感情をある程度自由に表現できれば、自分の感情を溜めなくていいから、暴発の可能性が低くなると思います。自由にやれるということが、健康ということではないのでしょうか。」
雲泥 : 「元教師の立場から、悲しみ、恐怖、怒りを出すといどうしていい教師になるのか、説明して下さい。」
林 : 「いいところだけでなく、悲しみなどの弱みがあって全体で人間だからです。いいところだけでなければならないとしたら、片輪な人間になるしかありません。弱みも出して、始めて人間になるのですから。」
雲泥 : 「しかし、弱みを出すなどのマイナス思考はやめてプラス思考で生きるべきだという主義の人も多いと思います。実際、プラス思考は役に立ちますよね。」
林 : 「役に立ちます。但し、それは表面的です。しかし、生徒は表面的なことなんて望まない。生徒は、人間であり、ドロドロしたものを出す。そのことを「分かる」感覚が欲しいですね。ところが自分の中のドロドロが分かる範囲でしか生徒のことは分かりません。生徒のドロドロを分からないと、生徒のことを受け入れることはできません。」
雲泥 : 「いいところだけでなく弱みがあって全体的であるべきだという説明ですね。 しかし、もう少し説明が必要な気がするのです。今まで1だったけれど、隠していたもう1の部分を出しました。だから全体が2になりました。その分大きくなりました。しかし、そんなものじゃありません。2倍どころか、何倍も何十倍も変わる。何かが変わる。がらんと変わる。バケツをひっくりかえしたほど変わる。単に、隠れていたものを出しました、という簡単なことではないと思うのです。出すことによって、自分のありのままで、本音で生きていいということが、何かものすごい根本的な変化をもたらす、という感じです。」
林 : 「そう。地球の半分は知ってました、でも、地球にはもう半分の裏側があることが分かりました、そしたら宇宙のことまで理解できました、という感じでしょうね。」
雲泥 : 「そうですね。」
林 : 「そうしたら単なる「先生」ではなくなってしまう。私自身の経験なんだけど、自分が生徒に教えるのではなく、生徒に教わる感じになりますね。よく「生徒から学べ」と言う言葉があります。でもそれは、理屈ですね。自分の中から沸き起こってこない限り、単なる理屈で終わってしまいます。そうでなくて、自分が変わる必要があります。理屈で理解しても、すぐに元に戻りますから。」
雲泥 : 「何かをやろうとするのではなくて、何かがお腹の底から起きるんですね。」
林 : 「それは体験してみないと、ここでいくら理屈で言ってみても始まらないでしょうね。変えるんでなくて、変わるんです。」
[booklist]