ベビーブレス体験集(本の内容)
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
塩見澤俊子(仮名)32歳 会社員
塩見澤俊子さんは、現在の会社に勤める前までは、病院の栄養士をしていた。出身校の先生に、今からの時代には必要だからと勧められて、何となくその気になり、カウンセリングの勉強をしていた。その勉強では、一対一でカウンセラーとクライアントの役で練習をした。ところが、自分がクライアントになっても、自分の心の部分に反応がなかった。勉強仲間はみんな、例えば、小さいころの心の傷などを思い出すようだったが、自分は出なかった。自分だけ思い出せないのはおかしいと思った。
結婚するため病院勤めを辞めた。その頃、知り合いの社長に、結婚前に、自分自身を見つめておくことを奨められ、1995(平成7年)8月に有明の内省セミナーに参加した。3日間コースだった。しかし、自分の中に何か精神的な問題があるというような問題意識はなかった。
ところが、どうしたことか、一月に一回、体調を崩して一週間ほど熱を出すようになった。結婚で、生活のリズムが変わったせいかも知れなかった。夫の送り迎えが中心になって、1日が過ぎる。夜中の1時、2時に夫を迎えに行った。だらだらして1日を過ごすようになった。人(夫)に合わせたペースで生活することになった。その後、知り合いの社長が経営する現在の会社で事務のアルバイトを始めた。小さな会社だったが、社長には気に入られていた。
そのころ、意識教育アコールのブレスワークというセッションがあるのを知った。カウンセリングのように人との対話の中で自分を調べる作業が苦手だが、ブレスワークは個人でできそうだった。
1996(平成8年)7月7日に、初めてのブレスワークに、夫と二人で参加した。グループセッションだったので、周りの参加者がとても気になった。何でこんなに気になるんだろうと思うぐらい、気になった。ブレスワークの中では、俊子さんは赤ちゃんになる体験をした。その体験をしてから、俊子さんは、毎日の生活の中などでとても敏感になった。俊子さんの内部で、何かが少し変わった。
9月28日に、意識教育アコールのライフリーディングを受ける。俊子さんは、よく聞いてもらった感じはあったが、あまりピンと来なかったようだ。
しかし、一年後にブレスワークをもう一度やってみようと思った。1997(平成9年)6月22日に2回目のブレスワークのセッションに参加した。そのセッションでは、胃の内容物をいっぱい吐く体験をした。思いっきり吐いた。そして、指シャブリして赤ちゃんになる体験をした。その後の瞑想の時には、手の平に光る地球のような玉が見えて、まるで自分が宇宙にいるようだった。気持ちがいい体験だった。このブレスワークは俊子さんの印象には残った。しかし、ブレスワークの際中に周りが気になるので、続けてはやる気にはなれなかった。
ブレスワークを2回受けた後あたりから、母親に対する遅い反抗期を迎えた。30歳だった。
母親の電話に出たくなくなった。受話器を取る前に、どういう訳か、母親からの電話だということが分かる。出たくない。出ない。同じ日でも、母からではない電話には、普通に出ている。感が働く。かなりの確率で母からだとわかる。たまに、間違えて母の電話に出てしまうこともあった。「あーあー」と思った。でも間違えることは少なかった。母からの電話にはでない。母親と話すのが、嫌で嫌でしょうがなかった。何度も、そんなことが続く。そのあとで、母の怒りの声が留守電に入っている。「どうして、出ないの!!」すごい剣幕だった。でも、その留守電の怒り声を聞いていて、なんだか気分が良かった。
俊子さんは本当は母が嫌いだったということがわかってきた。真綿でくるむような母からの押しつけが嫌だった。食事の準備などの家事に関して、母は、手を抜かなかった。どんなに疲れていても、夫のお弁当は必ず作るべきだった。布団のシーツは必ず定期的に洗濯されるべきだった。そして、よく、優しくこう言った。(お母さんである私ができるんだから)「きっとあなたもできるわよね」と。俊子さんが苦手なことも、押しつけてきたものだった。
自分の家から車で20分くらいの近くにいる母のいる実家に、行かなくなった。
どうしても行かなくてはいけない用事、例えば、まだ実家に残していた自分の洋服を取りに行く用事があった場合には、母が勤めに出て留守の昼間に行った。その昼間に、父とは一緒に食事をしに出かけたりした。そんなときは、勤めから帰ってきた母には、俊子さんがやってきた形跡が分かった。するとあとで、怒りの留守電が入っていた。「どうして、いないときにばかりくるの!!」。
それなのに、実家の近くにある親戚のおばさんの家には、よく行った。そのころ、そのおばさんに「自分の親に何で気を使うの」と言われた。今まで周りに気を使い、親にまで気を使いながら生きるいい子をやっていたんだね、という意味だった。それまでおばさんは、俊子さんにそのことを言えなかったが、今は俊子さんが親に反抗し、自分を取り戻しつつあるのが分かったので、ようやく言えた、ということのようだった。
でも、俊子さんには、まだピンと来なかった。自分では、そんなに気を使っているつもりはないのに、どうしておばさんはそう思うのだろうと、不思議だった。自覚がなかった。そういえば、夫には、「親子で、子離れ親離れができていない」と言われていた。
実家には行かないが、そのほかの親戚とはつき合いがあり、よく訪れていた。親戚中が、俊子さんが実家に行かないことを知っていた。
そのころ、母は具合が悪くなり、軽い脳梗塞になった。俊子さんは、実家に寄りつかなかったので、その母の脳梗塞のことを知らず、後に父親に電話で呼ばれ、母が直接に、私と夫の前で話をしてくれた。母はあんまり怒りすぎたからだと、俊子さんは思った。
9月22日に、俊子さんの会社の研修で、意識教育アコールの軽いベビーブレスのセッションに参加した。3回目のセッションだった。しかし、怖くて自分の中には入れなかった。息が途中でできなくなった。
1998(平成10年)10下旬に、ベビーブレスの個人セッションを受けた。2時間以上、吐き続けた。初めて、自分の中の何かが出たという実感があった。自分の中の隠れていたものがようやく出せた感じだった。体が楽になった。自分の気持ちも楽になった。でも、その吐き気が、何を意味するものなのか、俊子さんにはわからない。意味など俊子さんにはどうでもいいことだった。俊子さんには、この吐き気は、自分を取り戻す役に立つという実感があった。
その個人セッションから2日後に、どういう訳か、俊子さんの唇が腫れて、「怪獣」のような唇になった。腫れは一週間続いた。しかし、俊子さんには、その腫れが自分の勲章のような気がした。自分の中の隠れていたものがようやく出せた感じだった。色々頑張ってきた甲斐があった。すごく嬉しかった。何かは分からないけれど、自分の中には手応えのある何かがある。
でも、その腫れはあんまりすごいので、社長や同僚はびっくりして、声がかけれないほどだった。そして、腫れがすっかり治ってから、「あれは、すごかったナー」と言った。
俊子さんは、なんだか理由は分からないが、自分を取り戻すのには「これ」(ベビーブレス)だと確信する。やっと会えたという感じだ。ベビーブレスのファンになる。この個人セッションを境に、俊子さんは大きく変わり始める。
このように、俊子さんは、感覚的な人である。以前からそうであった。結婚前に、何度かお見合いをした。そして、相手と二人きりで食事に行く段になると、具合が悪くなった。体が拒否反応を起こして、初めて、自分はこの人とは「あわない」と思うといった具合だった。現在の夫とはその「拒否反応がなかった」と俊子さんは笑う。
俊子さんは変わり始めた。今までの自分の不自然さ、変さが分かってくると同時に、その不自然さが治っていくのが分かった。自分のどこが不自然なのか、自分をいかに抑えているのかが分かってきた。同時にそれが、変化し、治っていったのだった。
それまでは、俊子さんはなぜ精神的なワーク(カウンセリング、内省、ベビーブレスなど)に引かれるのか自分では判然としなかった。強いて言えば、カウンセリングのときに感じた感情の乏しさがあった程度だった。それ以外に自分の不自然さなどは認識できなかった。
ところが、この4回目のセッションの後で、思い当たることが色々出てきた。
例えば、俊子さん自身は潔癖性という意識はないのだけれど、会食のときに大皿から料理をとって食べれなかった。だから、結婚式など、外食ができなかった。どうしても、外で食事をする必要があるときは、家で食事をしてから出かける習慣だった。小さいころからそうだった。お腹がすいて行儀が悪くならないように、父も母もそういうふうに育てられたようだ。俊子さんもそう育てられた。それが当たり前だというくらいに思っていた。
また、コンビニの弁当はだれが調理したか分からないので、気持ちが悪く食べれなかった。俊子さんのこれらの癖は、行儀と潔癖性の両方から来るようだった。
更に、慣れ親しんだ場所以外のトイレやお風呂の湯船には入れなかった。外出先の洋式便器には座れない。夫の実家でも湯船には入れなかった。もっともシャワーは平気だった。結婚後の新居の湯船にも入れなかった。だから、お湯につかりたいときは、実家の風呂に入りに行っていた。夫の実家でも、大皿から取って食べれらる料理は少なく、小食だと思われていた。
それが変化した。今は全然平気である。会社の会食でも真っ先に大皿から取って食べるようになった。トマトが切って皿に載せたものを、みんながするように箸で摘んで食べた。さらには、最後に残った一切れを、平気でおいしそうに食べるようになった。俊子さんの長い間の潔癖性がなくなった。
また、それまでは喫茶店にも一人で入ることができなかった。注文の品が来るまで間がもてなかったからだ。自分一人で待って居られなかった。落ち着かなかった。今は時間の合間を見つけて、喫茶店に一人で入って楽しめるようになった。その空間に一人で居られる。そのことが嬉しい。気持が落ち着いていられる。
新婚のときに毎月、熱を出したのも同じことが原因だったかのしれない。結婚しても新居に一人で居られなかった。じっとテレビを見ていられない。落ち着かなかった。今は、それがない。
それまで、近場に電車で出かけるのにも、時刻表できっちりと調べてから出かけていた。乗り換えの時間も考えて、出かける時間を決めていた。時刻表がかかせなかった。そして、調べているにもかかわらず、かなり余裕のある時間に着く。そうしないと、落ち着かなかった。それが今、ない。おおよその所用時間を計るだけで行動するようになった。完璧を求める気持がなくなった。今は、時刻表が家のどこにあるのかさえ、わからない。
自分の本当に望む仕事をしようと考えた。ベビーブレスで吐くことで、何かは理解できないが、自分の中に何かを抑えていたんだと分かった。今の会社の仕事は自分に合わないと思った。自分の職業に夢を持って生きていきたいと思った。就職活動を始め、会社に行って「辞めます」と宣言した。その就職活動は失敗した。しかし、俊子さんのエネルギーに押されて、アルバイトで勤めていた今までの会社が、俊子さんを正社員として雇うことになった。
また、今までは、上司に対し、仮に自分の意見を言わなくてはならない場合でも、本当には自分の意見を言えなかった。上司に気を使いながら、上司の意見に合わせながら、言葉を選んで、言っていた。優柔不断で、自分の意見も人に任せてしまう感じだった。今は、ストレートにものを言ってしまうことが多い。にもかかわらず、俊子さんの上司たちは、俊子さんには、ものが言い易いようだ。俊子さんの雰囲気が、悪気がない、ざっくばらんな感じだからだ。
親に対しても同じだ。勤めに出ている母親が電話で、荷物が多いので俊子さんに車で迎えにきて欲しいと行って来た場合には、それまでの俊子さんなら、自分の体がとても疲れていても、行って上げないと「母が大変だから」と思って、迎えに行った。しかし、今は、自分の体調がおかしいときには、はっきり「今日は体調が悪いので迎えにいけません」とはっきり言えるようになった。自分の内側が判断の中心になった、と俊子さんは言う。
色々な変化が現れる中で、俊子さんは5回目、6回目ののベビーブレスに参加した。1998・12.19.20の一泊セミナーだ。このセミナーでも、俊子さんは三回吐いた。ベビーブレスの中で、俊子さんは「私は私」という気持を味わう。からだを動かすセッションでは、俊子さん自身が飛行機になり銀河を飛んだ。地球儀の上を歩いた。すっきりしたいい気持ちになった。もはや、周りの参加者は気にならなくなっていた。
このセミナーには、母も参加させ、ベビーブレスを受けさせた。俊子さんが強引に連れて来たのだった。母は、ベビーブレスの後の感想で、自分は「仕事に逃げていた」と言った。母はバリバリのキャリアウーマンであった。そのセミナーの帰りに、俊子さんは久しぶりに、母と外食した。そのテーブルで、俊子さんはそれまでの嫌な感じを感じなかった。天ぷらがとても美味しかった。
このセミナーの後も、俊子さんは、背中に小さな腫れものができた。この腫れ物も、俊子さんには「勲章」に思えた。
1999(平成11年)、1,15に7回目のベビーブレスに参加した。俊子さんは、始め眠ってしまった。立って呼吸をする場面になり、既にみんなが立ち上がっていた。その雰囲気で目をさました。自分も呼吸をしようとしたが、すぐに気持ち悪くなって吐いた。
スタッフに背中を押してもらって、さらに吐いた。スタッフに抱きついて安心して泣けた。安心したかったんだと、漠然とした感覚だが、わかる。
以下、俊子さんの手記。「ベビーブレスの中で、深い呼吸をしていて、すごく怖さがでて呼吸を一度弱めてしまい、でもこれを乗り越えなくてはと思い、呼吸をしてたら、横腹が痛くなり吐き気が襲ってきて吐いた。その後、林先生が腰のあたりを押していただけたので楽になった。自分の中に怖さがあるようだ。安心感と怖さが隣合わせになっている感じ。今回は熱がでなかった。下痢あり。」
1999.2.21に8回目のベビーブレスに参加した。何度か吐いた。スタッフにお腹の上に乗ってもらって呼吸をする。苦い物を吐いた。1ヶ月ぐらいの間、自分の心の中で沸々していた物がでてきた。気分がすっきりした。今まで、「ノー」と言うと相手に悲しい思いをさせてしまうと思っていた。「ノー」と言っても良いんだと思うと、暴れられた。思い切り暴れた。自分の表現ができて気持ち良かった。ベビーブレスを終わった後、全身がだるかった。初めて暴れ、激しく動いたからだと思った。
その後、意識教育アコールとは別の団体が主催する3日間の自己啓発セミナーに参加した。1日目は、昔の自分に戻ってしまった様な感じで、ぎこちなかった。グループセッションのときも、決して自分からは話しかけない。受け身的であることがわかった。それまでは、ベビーブレスではじけていた感じなのに、ベビーブレスの後では自分から話ができていたのに、と思った。しかし3日目には自分を開くことができた。大勢の人の前で、自分の意志で話ができた。大きな収穫だった。
4月の一泊セミナーで、9回目、10回目のベビーブレスに参加した。
この9回目のベビーブレスでは、肩を押してもらって、やはりげーげー吐いた。ちょっと悲しみが出てきた。
二日目の午前中に各人が自分の話をする場面で、参加者の伊藤敬子さんの話を聞いて、心に触れるものがあり、気持ち悪くなり、涙を流した。心の中に、認めて欲しいと思う気持ちがあるという話だった。
10回目のベビーブレスでは、穏やかな細い呼吸が起きた。その呼吸で、体の下から何か(鬱の固まり、悲しみ)を持ち上げる感じになり、気持ち悪くなって吐いた。何度も繰り返して、吐いた。スタッフにお腹を押され激しく、悲しみの感情を吐き出した。悲しみが出て、力も出た。激しい感情が初めて出た。凄くスッキリした。安心して出せた。最後は笑った。自分が今まで抱えていたもの(その主体は未だ不明)を確認できた感じだった。
その後、ダンスの場面では、ぬいぐるみの熊と一緒にダンスした。自分をほめることができた。スタッフに優しく抱いてもらった感覚が役に立った。
この悲しみが出てから何日か後に、連休で実家に泊まった。そのとき、なぜということはないのに、父に対して泣いてしまった。
俊子「今までごめんね、ごめんね」
父「いいんだ、いいんだ」
本気で泣いた。まるで子供が大きな声で泣くようにわんわん泣いてしまった。少しお酒を飲んでいたが、何が悲しいのか分からなかった。とにかく悲しさが溢れた。それまで、親の前で泣いたことはなかった。
俊子「初めて泣いたね」
父「うん」
父も嬉しかった。娘が心を開いてくれた。夫はすぐ側で黙ってお酒を飲んでいた。俊子は父親に料理を作ったわけでもなく、家事もしなかった。ただ父が用意したお酒を飲んで、食事をしただけだった。でも父は嬉しかった。父は母に、娘が「来てくれた」と言って、とても喜んだ。
6,13に11回目のベビーブレスを受けた。朝から膝が痛かった。今日は膝から何かが出るなと思いながら、受けた。年齢退行で、自分の年まで降りたときには、すでに眠ってしまっていた。気が付いたらベビーブレスが始まっていた。いつもこうだ。ブレスを始めると、膝が痛かった。足に怒りがたまっているようだ。膝に上にスタッフにのってもらった。そして、はね除けた。怒りの感情が出た。泣けた。でもなぜか分からない。寒くて仕方なかった。また、眠ってしまった。体に力が入らず立つことができなくて、ダンスは出来なかった。体がフワフワして自分ではない感じがした。
終わった後は、怒りはなくなった。寒さもなくなった。足の痛みもなくなった。俊子さんの感情は、いつも体とリンクされているようだ。いつも吐き気がするので、吐くための袋が欠かせなかったが、今回初めて吐かずに済んだ。袋はいらなかった。また、変化が起きてきた。どうも、吐くという過程は終わったのかも知れないと、俊子さんは言う。
ベビーブレス後の体験発表の時間に、眠ってしまっていた。俊子さんは、自分が大勢の、しかも話している人の前で寝てしまうなんて信じられなかった。話をしている人に失礼だと思っているはずなのに、いつの間にか寝てしまい、起きたときに自分でもびっくりした。いつもの自分の布団以外では寝付けない自分なのに、驚きだった。
会社で、今までは、自分の意見が言えないことがあった。例えば、同僚がミスをしたはずなのに、自分が叱られても、ぐっと自分を抑えて、そのままになってしまうことが多かった。また、夫とも、喧嘩はできるだけしないようにしていた。
ところが、この11回目のベビーブレスの後に、俊子さんは、ある男の同僚とほとんど初めて喧嘩した。喧嘩で自分の怒りを出せた。喧嘩の理由はそれほど大きなことではなかったが、自分が怒れたことが、俊子さんにはとても新鮮だった。
同僚は、上司に迷惑をかけないことを重視して仕事の手はずを決めようとしたが、俊子さんは、仕事をどう処理すべきかという自分の気持ちを重視して手はずを決めた。俊子さんの手はず通りに仕事が運び始めているのに、同僚はブツブツ小言を言い始めた。その同僚のいつもの感じだった。それまでの俊子さんであったら、とりあえず謝って、ことを丸く収めようとしたはずだったが、そのときは違った。俊子さんは、その同僚にそれまで感じていたことを、臆せずにキッチリ言えた。言いながら、震えるような怒りを感じた。同僚はムキになって怒った。
喧嘩になってしまったことは嫌だった。でも、同僚が怒ったことは、俊子さんには嬉しかった。自分の怒りを受け止め、答えてもらえた感じだった。答えてもらったことに、なんだか安心感があった。変だけれど、すごく嬉しかった。内心、ありがとうと言いたかったが、そのときの感情は「怒り」だったので、「また、やりましょう」と同僚に言った。
俊子さんは、自分にも怒りがあったことが、嬉しかった。それまで自分には怒る気持もなかった。自分にはそのような否定的な感情は余りないと思っていた。しかし、どこかで、その代わりに、人を本気で好きになる気持もないのかも知れないと思っていた。今、人を本気で好きになれるかも知れない。そんな予感がする。
この喧嘩のことを知った部長は、「今度は俺と(喧嘩を)やろう」といった。俊子さんは、「本気で返してくれなくてはやれません」と答えられた。昔の俊子さんは、部長のことを嫌いだった。何を考えているか分からない人、完璧な人、まるで母と同じような人だと見ていた。同じ部屋の吸気を吸うのも嫌だった。本当のことを言わない人と思っていた。今は部長に対しても、俊子さんは自由に言えるようになった。部長は、実は完璧ではなかった、と俊子さんは言う。
俊子さんが変わるに連れ、母も変わってきた。
それまで、母とは、まともな話ができなかった。母の話は、会社や同僚についての愚痴が多かった。人の悪口が多かった。俊子さんはそんな話は聞きたくなかった。しばらく適当に聞き流して、別の話題に変える。そして、今度は自分がしばらく話す。すると、そのうち、今度は母が話題を変える。会話と呼べる代物ではなかった。交互に、勝手にしゃべるだけだった。
ところが、最近母との関係が良くなった。話のキャッチボールが出来るようになった。母自身も変わったようだ。つい最近、母としゃぶしゃぶを食べに行った。その席での母の話は、会社の話ではあったが、いつものような愚痴ではなかった。仕事で同僚が母を助けてくれたと言うような話であった。ほとんど初めて、人のことを「良く」いう話だった。俊子さんも「良かったねー」という内容の話を母に返すことができた。「こんな話のキャッチボールができるようになるのに30年かかっちゃったね」と親子は話した。母も外では食べられないほうだった。この日は二人で、食べ放題の店で、満腹になった。初めてだった。
母が変わった原因は、俊子さん自身が変わったからだと、俊子さんは言う。俊子さんは、自分自身が変わってきたことを、今はたまに合うようになった母に、よく報告していたようだ。そうするうちに、母が変わり始めたのだ。
母は、会社で責任のある地位にいるが、それまで仕事は全部自分でしなければ気に入らないような人だった。それが、今は、仕事を人に任せられるようになったようだ。母は、そうすることで、仕事自体の忙しさは変わらないが、気持ちの上でゆとりができた、と言っていた。そして、同僚が感じていた気持ちを、母は初めて感じるようになったようだ。そして同僚も自分ができる仕事は、それまで母がしていたような仕事であっても、率先して自分から行うようになった。その為、母は、別の仕事まで手を広げてできるようになった。
そういえば、ちょうどそのころ、俊子さんも仕事を部下に任せきれない自分に気づいていたので、十分な準備をしたうえで仕事を、あえて部下にどんどん任せようとしていた。俊子さんの上司は心配したが、そうすることが、部下を信頼し、部下がちゃんとした仕事をするようになる近道だと気づき始めていた。
母と俊子さんは、期せずして、それぞれの会社で同じような状態にあったのだった。
それまで俊子さんは母のことが嫌で、何とか母を変えようと思ったこともあったが、母を変えれなかった。ところが、自分のことを一生懸命にやっていたら、いつか気がつくと、自分が変わり、母が変わっていった。
ものの本になどもよく書いてあるが「自分が変われば周りも変わる」。ところが、自分を変えると言ってもどうして変えればいいのか分からなかった。今思うに、自分を変えようなんてことは忘れて、ただ自分のことを観ていこうとしただけだった。ベビーブレスをするこことが楽しくて楽しくてしかたがなかった。そうしているうちに、気がついたら、自分も、母も変わっていた。
それまで、俊子さんは会社で、どこまで自分の意志で行動していいのか分からなかった。上司や同僚に聞いていた。いちいちお伺いを立ていた。「そんなことも自分で考えられないのか」などと言われることがあった。
ところが今は、自分の意志で行動できるようになった。思ったときには既に行動を起こしていることがあるほどだ。そして、事後報告だけ上司にする。自分がとても楽になった。たまに失敗することがあるが、それほど大きな失敗にはなっていない。失敗したときには「すいません」と謝る。上司に許されている感じが嬉しい。自分の感覚で動いていいんだと言うことが分かるようになったのが嬉しい。
この頃会社が変わってきた。主要メンバーが10人弱の小さな会社だが、会社の雰囲気が穏やな自由な感じになった。自他共に認めるところだ。社長や上司が俊子さんに気楽に話せるようになった。そんな俊子さんの存在が大きいようだ。
塩見澤俊子さんは、つい最近のベビーブレスで、死に関する体験をした。少し前に、母が入院していたせいかも知れない。その体験の中で、涙があふれてあふれて「死ぬなよ~」「何で死ぬんだよ~」という思いが出て、暴れていた。その後に、母の頭をなでながら「死んでいいよ」と思った。そのすぐ後に、のどが苦しくて、のどを手で押さえた。「殺される~」と思った。その後、祖母が現れた。「死んでたまるか」と思った。
俊子さんは、自分の中に隠れていた怒りや悲しさに気が付いてきたものの、「何が」悲しいのか、「何に」怒るのかの「何」の部分は分からないでいた。この「何」の部分は俊子さんの場合、存在しないのでは、と思えるほどだった。しかし、最近になって、この「何」の部分、すなわち原因が分かり始めたと思える気付きがあった。
それは、そのベビーブレスの後に母から聞いた話しの中にあった。母の姉は、母よりも2歳上で、小学校一年の時に亡くなった。姉はお腹に回虫がいっぱいたまって、口から回虫が出てきて、亡くなった。
姉がなくなった1~2年の後までは、母と祖母はよく次のような会話をしたそうだ。
祖母「お姉ちゃんが逝っちゃって・・・・」
母 「悪かったね!ばかが残って」「(私がお姉ちゃんと)代わればよかったと思っているでしょ」
祖母「また、おまえは親を困らせる」
母 「お姉ちゃんは(器量がよくて頭が良くて)いい子だったと、思っているでしょ」「そっちの方(お姉ちゃん)がいいよね」
母の話によると、祖母はその後では姉のことを一切話さなくなっり、心に蓋をしたまま亡くなったようだ。そして、そのせいか母の記憶は、姉が亡くなったときのことや母と姉との関係になると、途絶えてしまう。そして子供の頃のことをあまり覚えていない。俊子さんには、不自然に思え、母も心に蓋をしている感じがするそうである。
俊子さんは、「祖母、母の姉、母、私の関係を知ることで、私は今、”かなしみ”の中に包まれて日々過ごしています」という。感情の乏しかった俊子さんに、心の底からの感情がよみがえってきている感じがする。
俊子さんは本来は、小さいころから感覚的な自由な子供でした。
俊子さんが幼稚園生ころ、屋根にペンキを塗る作業があって、錆止めのオレンジ色のペンキが使われていました。傾斜地に建った家で、屋根の一方は、傾斜地の山側の高さと同じでした。幼稚園生の俊子さんも簡単に屋根に乗り移れたのです。にぎやかな俊子さんがいつになく静かになったので、「おや、静かだな」と思った両親が、俊子さんの様子を見ると、俊子さんは何と、顔や身体中にそのオレンジ色のペンキを塗っていたのです。あたしきれいでしょうという風情でした。危険だったので、大騒ぎになったが、薬品で無事に落としてもらい、現在の俊子さんの顔には傷はありません。
また、ある時、俊子さんは鶏小屋で遊んでいました。「おや、静かだな」と思った両親が、俊子さんの様子を見に行くと、俊子さんは何と、鶏と一緒に鶏のエサを食べていたのです。
また、三輪車に乗っていて、普通の子供はそこに壁があってブレーキをかけて止まるのに、俊子さんは壁にぶつかって初めて「あ、止まった」と思うような子だったようです。
このように、もともと感覚的で自由だった彼女が、行儀などを気にする両親に押さえつけられて育って来て、自分を失っていきました。そして、いつの間にか、外食ができず、他人の家の湯船に入れないような人になったのです。
俊子さんはもともと感覚的なので、自分が何に傷ついて、何に抑え込まれているのか、理屈や理論では認識できないでいます。自分の不自然さの認識も感覚的です。
そして、出会ったベビーブレスが自分にあっているという確信も感覚的でした。俊子さんはベビーブレスで、再び自分を取り戻して来ました。自由になってきたのです。自分の本来の気質である「感覚的」でいいんだという安心感を持つようになってきました。
俊子さんは、「いまでも、本当の根っこは分からない」と言います。現在、しかしそれでも、彼女は着実に自分を取り戻しているところです。確かなことは、ベビーブレスで自分を取り戻すのに、頭や理屈はいらないと言うことです。
つい最近、俊子さんは、「何が」悲しいのか、「何に」怒るのかの「何」、すなわち原因が分かり始めたように思われる気付きがありました。それによると、祖母は、母の姉の死を受け入れきれずにいて、そのため、母へ十分な愛情が行かず、母は自分への愛情不足を消化しきれないまま俊子さんを産み育てたらしいのです。そして、俊子さんは感情の乏しい人になってきたのです。心を閉じた祖母、母、彼女・・・という流れが推察されます。
林 : 「俊子さんは感覚的な人ですね。自分の中に何かがあると、感覚的に知っていた。それでベビーブレスを続けたのですね。」
雲泥 : 「意識の底では知っていたのでしょう。」
林 : 「吐き気が強かったですね。腫れ物などが体に出ると、不安なのか、始めは電話で相談を持ちかけてきました。しかし、説明を受けるうちに、これは勲章だ、と思える肯定的な感覚を俊子さんは持っていました。幼いときの自由な性格、その本来の性格を背後に感じます。その肯定的な感覚が、俊子さんがベビーブレスを通して成長する上で、とてもよい方向に働きました。」
雲泥 : 「本当は自由で肯定的な性格なんですね。」
林 : 「俊子さん自身が言っていたことなんだけど、「自分はベビーブレスを怖いと思ったことはない。しかし、ベビーブレスを怖いと思う人も多い。怖いと思う人も、実は自分の内部に何かが隠れていると知っているからこそ怖いのじゃないかしら」って。」
林 : 「電車の吊革が握れない、というような潔癖性で苦しんでいる人が、今の若い人などには多いです。それでも生活は普通にできるので、あえて自分を探ろうなどとは思わないかもしれないですね。
俊子さんの場合、それほど困っていなかった。潔癖性を治そうとは思わなかった。それでも、自分を探し続け、ベビーブレスにたどり着いて、どんどん変わっていったのをつぶさに見せてもらいました。今は、大変に落ち着いた人の雰囲気が出てきました。
カウンセリングなどの勉強をして心に「反応がなかった」ら、普通の人ならば、自分にはカウンセリングなどは自分には必要ないんだと思うかも知れませんよね。
ところが、俊子さんの場合には、自分には感情が乏しいと思い、さらに自分探しを続けたのです。」
雲泥 : 「ある人たちは、自分の中の何かが変だと感じて、自分探しをする。他の人たちは、感じない、あるいは感じても、(自分探しの)必要を感じない。その違いは、何でしょうね。各個人の”時期”ということもあるかも知れません。しかし、その”時期”は一生来ないかも知れないし・・・。勇気のようなもの・・・。」
林 : 「カウンセリングは言葉を介しての手法だから、自分の気持ちが言葉で表現できなければなりません。しかし、言葉にできない、感覚的なもの、直感的なものというのがあります。俊子さんにはそれが強い。その点で、ベビーブレスは、よかったですね。」
雲泥 : 「確かに、俊子さんは自分にピッタリの手法を見つけたのかも知れません。しかし、俊子さんは、感覚的である以前に、何かを求める気持がありましたね。感覚的ではあっても、求めない人もいます。俊子さんは求め続けました。今も、続けています。」
林 : 「俊子さんの場合、ただ吐いただけなのに、外側の事(仕事上の人間関係、母との関係など)がどんどん変化していきました。俊子さんにはそれがおもしろかった、それで続けたという面があります。」
雲泥 : 「確かに、俊子さんは人との人間関係がどんどんよくなったけれど、それは副産物であって、だから、それだけで、ベビーブレスなどを続けたんだ、という感じではないと思います。」
林 : 「副産物なんだけど、俊子さんには、人間関係の変化などがとても面白かったと思いますね。喧嘩ができなかったのに、できた、とか。自分の感情が出てきた、とか。」
雲泥 : 「それよりも、俊子さんはブレスの最中に、吐き気があったり、体に痛みが出たりした。その吐き気や痛みを、直接の手応えとして感じていたのではないかと思うのです。ベビーブレスなどやっていない人だったら、そんなおぞましいこと・・・という感想を持つかも知れません。」
林 : 「実際、俊子さんは会社の人たちには、「そんなこと、よくやるな」といわれていますからね。その言葉の裏には、俊子さんの自分自身に向かっていく力のようなものを、会社の人とたちが感じている風がうかがわれるんです。確かに、俊子さんは、吐き気などを直接の手応えとして感じ取れる力があったと思います。
それと、やはり、一回ベビーブレスをやる度に、いろいろのことが変化していくのを俊子さんはしっかりつかむことができる。それを、俊子さんは楽しみにできる。次のベビーブレスでは自分にどんな変化が起きるのかと。だから、次々と、続けることができるのだと思います。」
雲泥 : 「なるほど、それも大きいと思ます。それも、まさに、俊子さんの感覚のおかげでしょうね。一般には、人は理性を介して物事を理解しようとしますから、あまり鋭くなれないというところがあります。例えば、ベビーブレスをやった後で、レストランの食事が美味しかったとする。それは、たまたまそのレストランの食事の味付けがよかったのかも知れないし、たまたま自分の体調がよかったのかも知れない。ベビーブレスをやって、自分の内部が変化したからだという証拠はどこにもない。よほど大きな変化だと、これはどうしたことだ、自分に何が起きたのか、と驚く。そういえば、最近変わったことといえば、あのベビーブレスだ。ということはベビーブレスをやったからだ、ということになります。
ベビーブレスをやって自分の奥深くの部分がうまく浄化できれば、理性も認めざるを得ないような驚くような変化も起きてきます。しかし、自分の奥深くの部分に単に触れる程度でも、自分の内部はどんどん変化(小さな変化)しています。理性は、その小さな変化が認識できにくいですが俊子さんは、その変化がよくわかるようですね。」
林 : 「そうなんです。だから、俊子さんは、自分を成長させるのが上手なんです。」
雲泥 : 「俊子さんは「求める力が強い」んだ、と言ってしまえば簡単なことですが、実は俊子さんの場合、そういうことなんですね。」
林 : 「少し話を進めると、この俊子さんがものごとを感覚的に直接にとらえる性質というのは、俊子さんがベビーブレスで自分の器を拡げていったときに、目に見えない感覚的な器の広さとして、俊子さんの魅力になってきていますね。会社の人たちは俊子さんに感情をぶつけても、その感情が感覚的であり理不尽であっても、そのまま俊子さんに受け取ってもらえる安心感になっています。俊子さんに、安心を感じるようです。俊子さんは、会社の中で、そんな存在になって来ています。」
雲泥 : 「そうですか。」
林 : 「それと、この感覚的ということなんだけれど、俊子さんのケースを離れても、ベビーブレスを続けていると感覚が鋭くなるということがあります。自分のことや他人のことを感覚的に見抜くようなところが出てきますね。」
雲泥 : 「そうですね。鋭くなってきます。その鋭さを自分の内面に向ける分には、自分の成長を促すという力になるけれど、他人に向けると、それまで何とかうまくやっていた人と、うまくやれなくなるということもあります。例えば、他人から見れば、俊子さんはそれまで喧嘩しない人だったのに、喧嘩する人になってしまったというようにです。」
林 : 「その鋭さを他人に向ける、つまり外へ向けることには、しょうがなくて起きてきます。自分の内面だけにしようとしても無理ですね。その人が丸ごと変わるのですから。でも、そのことは今は、ここまでにしましょう。」
雲泥 : 「俊子さんは最近、自分の悲しみや怒りの原因について気づき始めました。その原因を探ることで、その原因を作ったであろう母の中にどんな心理的な傷があったのかを理解しようとしていますね。その理解の過程で、その傷を作った祖母の心の中はどんなだったんだろうと探っています。このように、一人であたかも三代の心理的な傷を探る仕事をしているように見えますね。」
林 : 「三代の仕事などというと、なんだか宗教みたいですね。このベビーブレスを宗教的だとみる人もいるのです。でも、実際に、深いトラウマ(心理的な傷)は、親の心の傷から来ることが多いです。そして、その親もまた、人の子であり、自分の親から心に傷を受けていたということが多いですね。」
雲泥 : 「宗教というのなら、俊子さんは吐くことで、自分の成長をつかんだのだから、俊子さんの場合は、ゲーゲー教ですね(笑い)。
しかし、例えば「吐く」ということと「成長」とが結びつく奇妙さを捉えて、「宗教」と判断するのなら、それは、あまりに表面的な判断のように思えます。「吐く」ということはとても心理的だからです。
具体的に少し説明させていただきたいと思います。誰でも、心理的な傷を受けたまま生きていかなければならない状態では、その傷を心の深い部分に閉じこめますね。無意識の領域に押しやります。そうしないと、日常の生活ができないからです。例えば、自分を育ててくれた真の母親が、本当は自分の存在自体を望んでいなかったとします。母親は表面的には明るく子育てをするかもしれません。しかし、母親の心の底のその本音を、赤ん坊、または、小さな子供であった自分が、本能的に知る。子供は、大人よりも遥かに感受性が強く、その子供が母親と肌を接して生きつつ、母親の本音に気が付くかないでいることは、難しいからです。子供は知ります。そして、心の深い傷になります。子供には(そして多分どんな大人にも)、母親の本音を変えることはできません。母親の本音には、確固とした心理的な理由があるからです。例えば、母親自身が、自分が愛されなかった傷を持っていて、本当に子供をかわいいと思うことができないのかもしれません。子供は、母親が、おまえなどいなければいいと思っている事実とともに生きること、つまり、その事実を毎秒毎秒、心に感じながら、生きることには耐えられない。苦しすぎて生きていけないから。小さな子供にとって、自分を産んでくれ育ててくれる母親は、おしめを換えてくれ、ミルクや食べ物をくれ、自分の体にさわってくれ、自分の泣き声に答えてくれる母親は、あたかも世界全体だからです。その世界全体に、おまえなんかいなければいいと本気で思われていることなど、耐えられないから。
そこで、子供は、自分が傷を持っているなんて認識できないようにします。心を閉じます。いわゆる「抑圧」ですね。この抑圧という作用は、純粋に心理的な作用であって、本人には意識できません。抑圧を意識すれば、傷自体も意識しなければならなくなり、抑圧の機能が果たせないからです。この抑圧は、子供の時だけでなくその後も続きます。
この抑圧は、特定の認識(母親が自分の存在自体を望んでいないという認識)だけを抑圧するわけにはいきません。自分の本当の感情や、感覚や、生きようとする気力や、ときとして呼吸や、生物としての体の機能も、抑圧してしまうことが多いようです。そして、感情に乏しく、鈍感で、生きる気力に欠け、呼吸が浅く、悪いものを食べてしまっても吐けず、いつも体に病気を抱えているという人ができあがります。
この抑圧という作用の不器用さを例えると、オーディオ機器(本人自身)で音楽(人生)を聴いていて、耳障りなキーキーいう聞くに耐えない雑音(抑圧すべき認識)が聞こえるときに、この雑音を消すことができない(母親の本音を変えることができない)にもかかわらず、どうしても音楽を聞き続けたい(生き続けたい)場合には、機器のボリュームのつまみを回して、雑音が気にならない程度に音全体(感情、感覚、気力、呼吸、体の機能)を小さくする(抑圧する)しかない状況に似ています。機器全体(本人全体)の機能が連動しているようです。
このときに、あえて、激しい呼吸をしたり、吐いたりすることで、抑圧が解除される方向にし向けることができます。機器のボリュームを上げるのです。特に、「吐くこと」に関していえば、悪いものを食べたときに吐くのみならず、我慢ならないほどに気持の悪いものを見たときにも、吐いてしまう人がいます。吐くことは、我慢の解除、すなわち抑圧の解除に、直結しているようです。」
林 : 「なるほど。吐くことは、抑圧の解除に役立つ、心理的な意味がある、という話でしたね。宗教というよりも、ですね。もっとも、グロフの超個心理学でブレスワークが採用されていることは有名ですから、世間的にも、ブレスワークは心理学の範囲に認知されていると言えるのでしょうね。」
雲泥 : 「時代的にも、ますます認知される方向に行くでしょうね。」
それと、心理的な傷が代々にわたって伝わっているようだという感想は、ベビーブレスなどやっていない人には分かりにくく、いわゆる宗教的だと感じる人もいると思いますが、そうではないと思います。もともと、心理的な傷が心理的な意味で遺伝する(親から子に伝わる)ということは、古く精神分析の創始者フロイトの時代から論じられ認められていることですから、親がそのまた親から傷をもらっているということも、全く同様に、認められる。とすれば、この二つを重ねれば、代々の傷というのも当然にあり得ます。
代々の傷は、自分の中の気付きとして再確認もできるし、両親や祖父母が存命であれば、うまい具合に実際に話を聞き出して確認できる可能性もある。ベビーブレスの中の体験を、その後に両親や祖父母、親戚に話を聞いて、実際に本当だったと確認できて、本人自身が納得してしまうことがあります。
興味深いのは、ベビーブレスの中では、代々の傷を観るようにリードするわけではないのに、自然に、そのこと(親や、その親の心理的な傷を探ること)が起きるケースがありますね。」
林 : 「どこから心理学、どこから宗教というのは、後で人間が理性で決めることではないでしょうか。本人が自分の中を探っていってしっかりつかんだものは、その人の真実になる。その真実を再体験し確認することで、その人が心理的な健康を取り戻していくのでしょう。」
雲泥 : 「ベビーブレスを紹介するときに、私たちは、心理学的な立場を取っています。宗教的になり、何か絶対的な教義のようなものがあるようになり、その教義を押しつけて害を生じてしまうことのないようにしています。
現実に、ベビーブレスの中で、個人的には宗教的な体験もすることがあります。その個人自身が宗教的な境地に興味があれば、その人自身の宗教を創設すればいいわけです。ゲーゲー教ではなく、もっと神秘的なすてきな名前を付ければいい。あくまで、その個人自身の問題であって、他の人までもが、自分もそうならなければならないのかと思ってしまうような、押しつけ、予断を与えないようにしています。ただ、他人の体験も、役に立つ手がかりになることはあります。オープンカウンセリングで各個人が体験を話しますので、他人の体験を心理的な手がかりにする人はいるかも知れません。」
[booklist]