ベビーブレス体験集(本の内容)
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
中居道子(仮名)62歳
娘、祐子さんは、中学を卒業して、看護学校に入学することを望んだ。思えば、祐子さんが初めて自分の好みを表明したことだった。あえて言えば、ささやかな反抗だった。しかし、母、道子さんは自分が中学しか出ていなかったことの辛さから、せめて高校だけはと思い「高校は出ていないと」といって、許さなかった。抑え込んだ。夫には意見を言わせなかった。祐子さんは従った。
そして、小学、中学で昔なじみの友達とは、高校ではバラバラになった。高校一年になってすぐ、祐子さんは、原因不明の頭痛と高熱が続いた。色々な薬を飲んでも効き目がない。
やがて「学校へ行くのが嫌だ」「人の目が怖い」「お母さんが無理に高校に行かせたからだ」というようになった。学校に行かなくなった。 母、道子さんはびっくりした 祐子さんは自分の生き甲斐だった。命だった。自分も小さい頃に母親に捨てられた経験があり、この娘だけはちゃんと育てたいと強く思っていた。そこで、かかりつけの内科の病院とすぐに相談して、精神科の病院に連れていった。坑鬱剤をもらった。
その後、祐子さんは何とか学校には行っていたが、頭痛や高熱の症状は、改善せず、ぱっとしなかった。がんばって何とか学校に通うが、しばらくすると、無理がたたって、がっくり落ち込む、ということをくり返した。学校には再び行かなくなった。
娘、祐子さんは未熟児で生まれた。1750gだった。保育器に一ヶ月入っていた。ようやく2400gになった小さな娘を家に連れて帰ったのは、12月の中頃だった。どうやって大きくしようかと不安でいっぱいだった。生まれた後も病気がちで、病院や薬局との縁が切れなかった。祐子さん(赤ん坊)の小さな口に、ほ乳瓶のゴムの乳首をねじ込んでミルクを飲ませた。嫌がっても押し込んだ。
祐子さんが小さい頃から、夫との仲が悪かった。夫婦は自宅で自営業をしているが、夫よりも道子さんの方が仕事の腕が良く、夫は頭が上がらなかった。しかも、道子さんは夫にだまされて結婚したという思いが強かった。夫とは家庭内別居の形を取っていた。夫は二階で生活し、道子さんと祐子さんは一階で生活した。道子さんは、作った食事の夫の分を、二階への階段の途中に置いた。家庭は暗かった。夫には、祐子さんをなつかせなかった。
道子さんは祐子さんを独占した。今思えば、祐子さんは、何でも道子さんのいうことを聞いた。母、道子さんには、とても都合のいい子だった。祐子さんは母親の支配を受け入れた。祐子さんにとって、道子さんとの人間関係しか存在せず、父との人間関係は実質上、なかった。
祐子さんには、道子さんの敷いたレールの上を歩ませた。幼稚園の時に祐子さんを英語教室に通わせたが、毎回、道子さんが教室まで付いていった。教室の後ろにたっていた。おかげで、道子さんが「A、B、C、を少し分かるようになった」と、後になって道子さんは笑う。祐子さんにはかわいらしいお人形さんのような洋服を買って上げた。が、決して祐子さんの好みを聞いたりはしなかった。祐子さんの好みは完全に無視された。
家の向かいに、祐子さんと仲のよかった同級生の男の子が住んでいた。子供のない家にもらわれてきた子だった。生まれつき心臓が悪く、いつも唇が紫色だった。祐子さんとはいつも遊んでいた。両親が家庭内別居の状態で、道子さんの支配を受ける寂しい祐子さんと、生みの親と別れて病気がちで寂しい男の子とが、分かり合うものがあったのかも知れない。
ある時、この男の子と家族や知り合いが、お出かけすることになり、「娘さんも一緒にどうですか」と声を掛けられた。しかし、「迷惑になるから」と、行かせなかった。今思えば、祐子さんの表情はとても「行きたかった」。それが分かっていたはずなのに、行かせなかった。そのときは、祐子さんの気持ちを無視する自分の支配があることが、分からなかった。その男の子は、後に高校生の頃に病気で亡くなった。
小学生の頃、大勢の人が居る駅のプラットホームの上で、道子さんは祐子さんを強く叱った。そのとき偶然に、祐子さんの従兄弟が、その場面を目撃した。まるで、虐待のようだったそうである。しかし、道子さんには全く記憶がない。祐子さんを自分の思うとおりにさせようとする気持ちは強かったようである。
小学生のクラブ活動で帰宅時間が遅くなっても、ついつい心配して、祐子さんに対する小言が多くなってしまった。小学、中学、高校を通して、祐子さんは泊まりがけでどこかに出かけることはなかった。祐子さんのボーイフレンドの話を道子さんは聞いたことがない。
母、道子さんの支配は尽きることがなかった。たとえば、祐子さんの洋服を買う際に祐子さんの好みが無視されることは、祐子さんが、小学生や中学生さらには高校生になっても続いた。どこへ行くにも祐子さんを連れて行くので、洋服の売場にも祐子さんを連れて行くが、目の前で祐子さんの洋服を選ぶのに、祐子さんは自分の好みを言えなかった。聞いてもらえなかった。道子さんがこれと思うもののみを、祐子さんに着せた。
食べ物に関しても同様だった。彼女が祐子さんに必要と思うものは、どうしても祐子さんは食べなければならなかった。祐子さんの嫌いなものと好きなものがあったら、道子さんは「嫌いなものから食べなさい」と命じた。今晩のおかずは何にしょうか?と、一人娘に相談することは皆無だった。レストランに行っても、祐子さんの食べる食べ物は、道子さんが決めた。祐子さんは道子さんが決めたものを食べた。これが食べたい!と祐子さんが言うことは決してなかった。何に付けても、祐子さんがダダをこねることはなかった。道子さんは祐子さんのことを思い出して言う、「す~ごくかわいくて、とてもいい子だった。お人形さんみたいだった。」
道子さんにとって、祐子さんは中学までは順調に見えた。しかし、高校には行って、不登校が始まった。
祐子さんの不登校に悩んでいるころ、薬局の人に、意識教育研究所(当時、東京の小金井にあった。現在の長野の「有明の家」の前身)を紹介された。道子さんは人を信じられない自分がいるのも薄々分かっていた。妹の家庭も、息子が家庭内暴力をおこしていた。道子さんは、祐子さんを連れ、妹の家族ともども一緒に意識教育研究所に行った。祐子さんが高校一年の夏だった。
祐子さんは、意識教育研究所で寮生活に入り、生き生きし始めた。家から離れての生活がよい効果をもたらすようだった。祐子さんは、調子もよくなり、やがて、自らの希望で家に戻った。高校一年の三学期になるときだった。そして、再び学校に通うようになった。しかし、心配だった。すぐに祐子さんは、もとの悪い状態に戻り、学校へいきたがらなくなった。「山の中に入って死にたい」というようになった。祐子さんが不登校になるのは、夫と家庭内別居を続け家庭が暗いことが影響していると思った。
離婚を決意した。また、親娘で意識教育研究所に戻った。祐子さんは寮生活をし、道子さんは別の寮(寮は複数あり、各寮が疑似家族構成になっていた)の寮母の仕事をした。祐子さんは、家から離れ再び元気になった。寮から学校に通った。在学中に運転免許も取得した。祐子さんは頑張る子だった。その頑張りは、彼女にそっくりだった。やがて、高校は無事に卒業した。
祐子さんは、卒業後に、歯科助手になった。しかし、職場の歯科医院での人間関係に苦しんだ。原因不明の高熱を出した。重病だったので、日赤病院の隔離病棟に隔離された。原因を探るために次々と検査をされた。検査で殺されそうに思えた。20日後に、たまらず、医者の反対を押し切って、祐子さんを強引に退院させた。医者は、気違い扱いした。原因は最後まで分からなかった。
意識教育研究所の指導もあり、祐子さんを、しばらく自分から手放し、海辺にある知人の家に預かってもらった。祐子さんは見る見る元気になった。このことからも、病気の原因は、職場の人間関係だけではなく、家庭、つまり母親との関係にあるようだった。しかし、母、道子さんには、そのことは、あまり自覚できなかった。
意識教育研究所では、原因はお母さんだと、指摘された。ショックだった。自分の育て方が間違っていただなんて、最初はとても思えなかった。祐子さんを抱え込まないように、手放すように、と指導された。祐子さんを支配しないように、自立させるように、と指導された。
また、自分の両親との関係を「内省」という手法で振り返る作業も続けた。彼女が、三歳の時に母親に捨てられてしまう経験と、そのときの悲しさ、寂しさをくり返して思い出した。その結果、祐子さんに関して指導される内容を、そうかもなと、思うようになった。しかし、そう思うのは、理屈だけだった。頭で分かっていても、本心はそうではなかった。本心はどうしようもなかった。自分の寂しさや不安はどうしようもなかった。
祐子さんは、海辺の家には8ヶ月居た後、また、意識教育研究所に戻った。そして、しばらくして、一人暮らしを始めた。道子さんの寮から一時間半のところに祐子さんの家があったが、祐子さんはほとんど訪ねてこなかった。道子さんもあまり訪ねていかなかった。なんだか気が置けた。
たまに訪ねてきてくれた時も、祐子さんとの会話は不自然だった。とてもギクシャクした。ある時、訪ねてきてくれた祐子さんは、新しい洋服を着ていた。母、道子さんには相談なしだった。相談なしで祐子さんが洋服を買ったことがなんだか不満だった。「買ったの?!」。あからさまには気持ちを出さないようにした。遠慮して、気を使った。が、祐子さんは、道子さんの雰囲気で、道子さんの不満がわかった。祐子さんは、無言の道子さんの支配がいやだった。親娘ともども不機嫌になった。
そんなことは何回もあった。そして、祐子さんと会うときは、自然でなくなり、構えてしまった。祐子さんを支配してはいけない、理想的な母親を演じなければならないという気持ちと、どうしてもそうできない心の状態があった。どうしていいか分からなかった。そのたびに疲れてしまった。
やがて、祐子さんは結婚し、家庭を持つ。母、道子さんとは徐々に遠い関係になっていった。
その後、道子さんは意識教育研究所で9年間、寮母を続ける。祐子さんに対しては支配や過干渉になってしまう彼女の気性は、世話を必要とする寮生たちには、逆に十分な保護になる面もあった。愛情に飢えた寮生には、もってこいの寮母であった。しかし、彼女の本質的な不安や心配が消えないままなので、いつでも支配や過干渉が生じる可能性があった。
あるとき、道子さんが、寮母の仕事を一階の台所でしていると、知人からアイスクリームの差し入れがあり、二階に居た寮生たちに「おーいアイスクリームがあるよー」と声を掛けた。普段に禁欲的な生活をしていた寮生たちは「やったー、きゃー」などと声を上げたが、何かに忙しいらしく、すぐには一階に降りてこなかった。そこで彼女は、何気なく、いつものことのように、お皿にそのアイスクリームを載せ、「食べなさい」といって階段のところに置いた。あたかも、すぐに食べないともう食べさせないわよとでも言うような、過干渉の雰囲気だった。今思えば、そんなことをしたらアイスクリームが溶けてしまうから、声を掛けただけで十分なのに、と思われることだった。
小金井の意識教育研究所が解散し、意識教育研究所から分かれた意識教育アコールへ道子さんは移籍した。そこで、定期的にブレスワーク(注10-2)をするようになった。
三歳の時にお母さんが、お父さんと離婚して、家を出ていった。子供たち、すなわち道子さんたち姉妹を捨てた。そのときの悲しみが自分の中にあることは、道子さんは意識教育研究所の内省でも分かっていた。ブレスワークでは、そのときの悲しみを、くり返して深く味わった。そして、悲しみだけでなく、不安や恐怖が出てきた。道子さんは、初め、ブレスワークなどという、「あんな苦しいものは嫌だ」と思っていた。だから、そんなに熱心にはやらなかった。意識教育アコールでブレスワークをやるので、いわば義理でブレスワークに参加していた。
ところが、ブレスワークで味わう不安や恐怖は、味わっても味わっても尽きない感じだった。そして、夜に寝付くときに、地の底に引き込まれるような不安を味わったりした。際限がない感じだった。変だぞと思うようになった。「もっと何かある」感じだった。
意識教育アコールではベビーブレスが開発された。道子さんも奨められて参加した。
初めのベビーブレスでは、お母さんのお腹の中の体験、胎児の体験をした。とても怖い体験だった。真っ暗な中で、怖くて、何か臍の緒のようなものに、しがみついている。そして、羊水を飲んでおぼれるような感じがした。苦しくて苦しくて仕方がない。実際、道子さんは7ヶ月の月足らずの未熟児で産まれたが、まだまだお腹の中にいたかったのだった。それまでのブレスワークはほとんど悲しいだけの体験だったが、このベビーブレスで、初めて心の底から、何かに「嫌だ!!」と言えた。生まれてきたのも何もかも全部いやだった。
とても大きな経験だった。これが自分の一番の根っこだったという感じがした。落ち着いた。なるほどと、納得した。こんな恐怖が自分の中に隠れているのだから、今までのような生き方をしてきたとしても、「しょうがないな」と思えるようになった。自分が自分を受け入れられた。
あまり深いところに入ったためか、毎日気分が悪かった。特に、朝起きたときに気分が悪い。「なんだこれは。こんな苦しい気分を抑えて、我慢して毎日生きてきたのか」と思った。産まれたくないし、朝起きるのも嫌だ、気分が悪い。しかし、気分の悪さは、表面的だった。これが本当の自分の気分なんだ。かえって、気持ちが楽になった。それまで自分が抑えてきた気分、そこにあることを自分が知らなかった気分というものを味わった。
そして、自分の問題の全体が分かるようになった。三歳の頃に母に捨てられる体験をし、自分は絶対に自分の親のようにはならないと頑張った。その悲しさが大きいと思っていた。しかし、その三歳の経験は、それほどは問題ではなかった。本当の問題は、もっと深かった。お腹の中だった。もっとすごかったんだと思った。
ベビーブレスをやるのが楽しみになってきた。もちろん、ベビーブレスをやっても、寂しさはある。消えてしまうわけではない。でも、どうして自分が寂しいのかが、分かるから、それでいいと思う。
自分が本質的に変わってきた。自分自身に正直になってきた。そして、自分の気持ちが分かるから、人の気持ちも分かるようになってきた。
道子さんは、その後も何回もベビーブレスを受けた。お腹の中の体験が続いた。しかも、お腹の中で殺される感じが出てきた。あまりに苦しいので、それ以上深く経験するのを避けてしまい、それ以上深く入りたくない感じが出てきた。少し停滞していた。
ある時、ベビーブレスの後で、そのベビーブレスの体験を内省するセッションがあり、道子さんも参加していた。その内省の中で、とても若い自分の母が出てきた。あまり若くて、責める気になれない。まるで、自分が寮母をしていたときの寮生のように、若い。「この人が自分を殺そうと何しようと、この人を抱きしめるしかない」という気持ちになった。ところが、その途端に「いやだー」と叫んでしまい、呼吸が激しくなり、止まらなくなり、そのままブレスワークのようになってしまった。何かの蓋が開いたようだった。「いやだー、いやだー」と叫びながら、胎児になっていった。
そのとき、ほんとに自分の気持ちがはじけて開いた。そして、自分が本当に生まれたような感じがした。今まで、本当には誰からも愛され抱いてもらうことのなかった自分がいた。このとき、自分が本当に開て、初めて、その場にいる人々(参加者)とつながった感じがした。初めて、愛され抱かれたようだった。皮膚の毛穴が開くようなふるえるような感触があった。自分の宝のような経験になった。
道子さんは、今、実感として感じている。自分の中にある不安な気持ちから、祐子さんに過干渉になってしまった。本当の意味で、祐子さんのことを心配して、祐子さんに関わってきたのではなかった、と。
しかし、今でも祐子さんと会うとき、自分が自然でなくなり、構えてしまう感じは、残っている。祐子さんも、道子さんのことを未だに昔の過干渉の母として、見ている。自分も、昔の過干渉の状態で祐子さんに接してしまうのではないかと、自信がない。
でも、自分が、自分の根っこを観て、本当に変わり始めたのは、ここ1年に満たない。だから、仕方がないと思う。そして、祐子さんに対する理解は、深くなった。自分が祐子さんに何をしてしまったのか、どうして自分がそうならざるを得なかったのか、よく理解できるようになった。ほんとうに、かわいそうな育て方をしたと思えるようになった。祐子さんを一人の個人として、その気持ちを尊重して育てるということを、して来なかった。祐子さんは人並みの反抗期も迎えずに、すべて私のいうことを受け入れて大きくなってしまった。
私(道子さん)が寂しかったのと同じように、祐子さんもまた、いま寂しい状況にある。娘、祐子さんは、子供を作らない。子供なんか要らないと思っているようだ。私が祐子さんをゆがめて育てたように、祐子さんもまた自分の子供をゆがめて育ててしまうことを恐れているのだと思う。祐子さんはほんとに、私の被害者だと思う。祐子さんにした最もひどいことは、祐子さんを父親から引き離したことだ。祐子さんは父親を恋しかったろうと思う。ほんとに申し訳ないことをした。自分が祐子さんの立場だったら、・・・と思う。ベビーブレスで自分の深いところまで観ることがなかったら、こんな気持ちが湧いてくることはなかったと思う。
しかし、だからといって、今、祐子さんと同居して、私のせいで祐子さんの負った心の傷を癒してあげれる自信は、ない。今は、自分自身のことをやり続けていきたい。いま、自分は変わりつつある。まだ、自分の中には何か隠れている。夫と父親のことをやらなければならない。
深く自分を観れるようになって、自分の好き嫌いがはっきりするようになった。自分の気持ちに沿って生活するようになった。自分に素直になった。それまでは、そうではなかった。自分は社会から見てどうすべきか、どう行動すべきかが、生きる基準だった。人にどう思われるかが問題だった。一度自分のまずいところを指摘されると、「クソー」と思って、二度と指摘されないように頑張った。今は、それがなくなった。楽になった。
そして、緊張が緩んできた。がんばって生きなければならないという気持ちが薄くなった。人に余計なことを言わなくなった。人は人、自分は自分と思うようになった。中居道子、現在62歳である。
母(道子さん)が娘に過干渉になったり支配したりしてしまう原因は、母の心の中にある不安感、つまり母親に捨てられる不安感のみならず、更に、心の深い部分の恐怖にありました。お腹の中で殺されるような恐怖、自分の存在を完全に否定されてしまう恐怖でした。
母の過干渉や支配は、表面上は悪意がなく、相手のことを思った行為なので、娘は反抗できなくて、高熱を出すしか方法がなかった。娘は父親とは人間関係が薄く、母が唯一の命綱だったので、よけい反抗できずに、すべてを受け入れてしまったようです。娘にとって、この受け入れが、心を深く傷つけたのです。今、母はそれらのことに気づき、変わり始めたのです。
林 : 「道子さんは、娘さんの気持ちがわかるようになって良かったですね。」
雲泥 : 「本当に、そうですね。」
林 : 「この道子さんと同じように、子供の不登校で悩んでいる人たちは多いと思います。」
雲泥 : 「そうですね。」
林 : 「道子さんは、初めは祐子さんを何とかしようとして内省やブレスをすることになったけれど、ベビーブレスで深く自分の中に入る体験をしてからは、自分自身のことを真剣にやり始め、今では祐子さんの気持ちが本当にわかるようになってきました。」
雲泥 : 「道子さんは心の健康を回復してきたけど、娘さんの祐子さんは、未だに、道子さんに心を開きませんね。娘さんは心に傷を負ったままです。道子さんは、本来は娘さんが心配だった訳ですね。このことは、どう思いますか。」
林 : 「そうですね。もし娘さんがまだ小さかったときに、お母さんである道子さんがここまで変わったら、娘さんへの心理的な影響も大きいので娘さんも当然に変わると思います。しかし、道子さんが変わるずっと前に、祐子さんは大人になっていた。祐子さんは、自分で自分のことをやる(注11)しかないでしょうね。道子さんが自分のことを自分でやったようにです。
大人の祐子さんは、小さいときのようには母の影響はもう受けません。また、受けたくもない。(小さな自分をひどい目に遭わせた)母親のような生き方はしたくないと思っています。道子から支配された生き方はもう結構。道子から離れて自分自身の生き方をしたいと思っているし、現実そのようにしています。母親とは完全に別居し、行き来も少ないですね。支配した道子さんへの反発があると思います。それでいいと思いますね。思い切り反発したらいいでしょう。道子さんの影響を受けて自分が苦しんだのだから、もう影響を受けたくないと思うのは、ある意味では当然です。だから、道子さんが少しくらいの詫びを入れてきても、聞く耳持たない状態だと思います。
しかし、祐子さんも、どんなにひどい目に遭わせた母であっても、実の母が本当に変わって本当に詫びを入れてきたら、母の言葉は心に響くと思いますね。
心には響くけれど、祐子さんはまだ、母親の心を理解しようというところには、いない(注11ー2)と思います。それだけ祐子さんの心の傷は深いと思いますね。」
雲泥 : 「道子さんは道子さんのプロセス(注11ー3)を踏んで回復してきました。大人になった祐子さんは、自分を母親から切り離したい。だから、道子さんは、道子さん自身のプロセスを踏んで自分を回復して行くことになる、ということですね。」
林 : 「そういうことですね。」
雲泥 : 「道子さんは、初めは、娘さんを何とかしようと思っていました。多分、自分に責任はないと思っていたでしょう。しかし、自分に責任があると言われた。だから、その次には多分、自分と娘さんとの関係を何とかしようとしたでしょうね。いい関係にしようと思った。関係性を何とかしようとしていた。けれど、自分の中に深く入ったら、自分自身のことに懸命になっていきました。関係性は関係なくなった!そして、自分の健康を回復した。今度は、娘さん自身が自分のことをやることになるでしょう。うまく行くにしたがって、多分、母親との関係性が関係なくなるでしょうね。」
林 : 「そうですね」
雲泥 : 「道子さんは、初めは外側(注12)の具体的な目的があった訳ですね。娘を何とかしよう。関係性を何とかしよう。その目的を達するための手段として、自分のことをやるという感じでした。しかし、ベビーブレスに出会って、自分の中に深く入って行くと、入って行くことだけが目的になってきました。入っていくことだけで、深い癒しになるし、何か確かな手応えがあります。表現できないような喜びがある。自分のことを深く理解することだけが目的となっていきました。」
林 : 「関係を何とかしようとするところにはいなくなるのですね。今、道子さんは、娘さんに自分の気持ちを伝えるときも、ただ自分の気持ちを伝えるだけ。それまでなら、そのときに心の中で何とか娘の気持ちを開かせたいというというのがあったろうと思うけど、それがないようです。多分、心の中の深い傷は、外側からの言葉(たとえ母親の言葉であっても)では癒せない、祐子さん自身の深い体験が必要だということを、道子さん自身の体験から知っているのではないかと思います。」
雲泥 : 「そうですね。」
林 : 「話がまたもとに戻るかも知れないけど、初め、道子さんは、自分の心の奥底の深い傷には気が付いていないものの、自分の心の不全感、例えば人を信じられないこと、自分は不幸であるというような漠然とした感じのようなものには気が付いていて、それだからこそ、何とか、娘だけは自分のようにならないようにしたい、娘だけは幸せにしてやりたい、と思ったのでしょう。だから、娘を幼稚園から英語教室に通わせるし、高校へ進学させることも譲らなかった。何とかして、子供(娘さん)を守ろうとすることだった。守るために、がんばって、がんばって人生をやってきた。娘を不幸にしたくなかったからですね。」
雲泥 : 「それなのに、娘さんは、(不登校などのように)おかしくなってきました。結果的に不幸になってしまいました。」
林 : 「自分の傷の見方が、浅かったからでしょうか。」
雲泥 : 「不思議ですね。浅いと、そうなるのですね。」
林 : 「見方が浅いと、自分の傷に対して、単なる反発や仕返しになってしまいます。本当には反発できません。本当の気持ちが出せません。深い理解がない。だから・・・。自分の本当の傷を観ることができない。だから、何とかして、外側のこと(ここでは娘に対する世話)をやって、取り繕って生きていってしまうのではないでしょうか。」
雲泥 : 「そこのところの説明は、難しいですね!見方が浅いと、なぜ、よかれと思ってしたことが逆に人を傷付けることになるのかという説明は難しいです。先ほどの「反発や仕返し」という概念で説明を試みるのは、例えば、自分の親から虐待された経験がある人が、自分の子供を虐待してしまうときなどは、ピッタリかも知れないが、道子さんの場合には、「よかれ」と思っているのだから、なじまないかもしれません。深いところでは、同じかも知れませんが・・・。」
林 : 「反動という概念ならなじむかもしれません。」
雲泥 : 「そうかもしれません。しかし、そんな難しい説明を試みるのは大変です。説明できれば素晴らしいですが。ただ、事実はそうなんだといことで、十分な気がしますね。それにしても、事実はそうなんだということが、不思議ですね。」
林 : 「不思議ですね。」
雲泥 : 「肉体的な病気の場合も、同じような説明の難しさがありますね。例えば、悩みなどで精神的なストレスが高くなると、心身症などといわれるように、いろいろな肉体的な病気を引き起こします。体の免疫力が落ちて、などと説明されるが、本当にそのときの体のメカニズムを説明しようとすると、とても大変だと思います。その説明にエネルギーを費やすより、ストレスを如何に無くすかの説明にエネルギーを費やしたいものです。この場合も、如何に、見方を深くするかの方が重要だと思います。」
林 : 「見方を深くするといえば、この道子さんの場合には、漠然とした不全感や不幸感はあったけれど、その傷が意味する悲しみの深さに気が付かない。本当にその深さに気が付けば、本当の根っこをつかまえれば、自分のエネルギーが変容します。エネルギーはそのままで、そのエネルギーを娘に対する世話や過干渉に使わずに済むようになるのです。
深さがないと、仮に娘を理解したつもりになっても、娘から反発を食らうことになるし、そうすると逆に親も反発して、結局うまく行かないということが道子さんは過去にありました。道子さんは娘に対して今も「自信がない」と言っていますが、道子さんの娘への理解が深まったことが、私(林)にははっきり感じられます。」
雲泥 : 「そういえば、林さんは道子さん親子を個人的によく知っているんですよね。
思うんだけど、子供が精神的に健康な状態で大きくなるには、親から深かく理解される必要があると思います。そして、親が子供を深く理解するには、自分自身を深く理解する必要があります。自分を理解できないのに子供や人を理解できませんから。親自身の心に傷があると、その傷が痛むが故に、傷は隠され、傷は理解されないまま残されます。理解したくない部分があることになります。親は自分自身の心を理解しないままになる。すると子供を深くは理解できない。子供は、深くは理解する能力のない親のもとで生きて行かなくてはなりません。そうして、子供もまた傷ついていってしまいます。子供が変になり、問題が生じるようになるのでしょう。」
林 : 「道子さんの場合も、自分の傷の深さを理解した分だけ、子供の傷も深く理解できたということが言えますね。
それと、今話していることと結局同じ内容になるとは思うんですが、親が過干渉や支配で子供にかかわっているときは、自分の傷は観えていないのが普通です。過干渉や支配の根っこにある親自身の不安や恐怖は、観ませんね。しかし、子供は、自分に向けられる過干渉や支配の裏側に、不安や恐怖を観るのです。そして、その不安や恐怖を受け取り、子供自身が不安や恐怖を内在させることになります。過干渉や支配によって直接傷付くというよりも、隠れている不安や恐怖に・・・・・。」
雲泥 : 「本当ですね。」
林 : 「例えば自分に不安があるが故に、子供に過剰な愛情をかける。子供は、その過剰な愛情の裏にある不安によって、傷つけられるのです。片伯部さんがよく言う「親の傷によって傷つく」ということですね。」
雲泥 : 「そうなんですよね。
祐子さんの場合も、母親の不安や恐怖を深いところでは理解しているからこそ、何とか、母親の意に添うように、小さいころから母親のいうことを本当によくきいていたのでしょう。「お人形さん」のようにね。そして傷つくんですね。」
林 : 「母親が、(過干渉や支配などの過剰な愛情をかけなければならない原因となっている)自分の不安や恐怖を観ることによって、具体的にはベビーブレスで不安や恐怖を再体験することによって、不安や恐怖は減って行き、過剰な愛情はただ消えていくんですよね。不思議ですね。」
雲泥 : 「不思議ですよね。」
林 : 「それと、道子さんはベビーブレスを始めた時点で既に60歳だったし、祐子さんは30歳くらいで親から独立して結婚し立派に生活していたんだから、本来なら、外側の問題はそれほど大きかったわけではないですよ。よくあるように、子供が、大きくなったのに独立して生きていけないというようなことがありませんでした。それにもかかわらず、道子さんはベビーブレスを一生懸命にやりました。やりたくてしょうがなかった。自分の中に、不安や恐怖というものがあるということを知ること、そしてそれらがどこらかやってきているのかを知るということが、彼女を夢中にさせました。自分自身を知るといいうことが、そのこと自体が彼女にとってものすごいことだったのですね。」
雲泥 : 「そうですね。初めは義理でやる”義理ブレス”だったんですね。それがベビーブレスで自分の中に深くはいるようになって、違ってきたんですよね。」
雲泥 : 「あと、道子さんはベビーで深く入って「朝起きるのも嫌だ。気分が悪い。しかし、これが自分の本当の気分なんだ。かえって気分が楽になった」というところがありますね。」
林 : 「自分の深いところに気が付いたら、何とかやりくりして、ごまかして生きていけるレベルではなくなってきたのです。隠しようがなくなる。自分を観るというのは、そういうことだと思います。その気分が悪いという本音で生きることが、道子さんには、それまでは許されなかったのだと思う。気分が悪いという本音のまま生きていっていいと、彼女は自分に許したのです。彼女自身も周りも楽になって来たようです。」
雲泥 : 「それから彼女が、はじけた感動的な場面があります。「(若い母親が)自分を殺そうと何しようと、この人を抱きしめるしかない」という気持になった途端に「いやだー」と叫んで気持がはじける場面です。この場面で何がおきているかという理解は、私と林さんでは分かれるんですよね。」
林 : 「私は前半の「抱きしめるしかない」というのは表面的な気持に過ぎず、その表面的な気持に過ぎないということに彼女が気が付くことで、後半の「いやだー」という本音が沸き起こった、というふうに感じました。」
雲泥 : 「林さんは現場に居たんだから、彼女の実際のエネルギーを感じているはずだし、そうなのかもしれません。お行儀のいい前半の部分なんか表面的で、本当はどんなにつらかったか、という叫びが「いやだー」の意味ですね。
しかし私は、前半も本音であったからこそ、後半の本音も出てきたのではないかというふうに感じてしまうんです。人間の心の奥底にしまい込まれる感情は、しばしば、180度異なる2方向の感情が一対セットになってしまい込まれている。あたかも、刺さった矢のヤジリに、二つのカエシが反対方向に伸びた状態で形成されていることで、矢が抜けにくいようにです。例えば、父親をものすごく憎む気持が隠されしまい込まれていた場合には、その反対の父親をすごく愛しく感じる気持も隠されていることが多い。憎む気持ちだけだったら、憎めばいい。それほど、困ったことにはならない。隠す必要はありません。
彼女の場合も、それまで表面的にやっていた「抱きしめるしかない」という気持も本音であることに気が付いたからこそ、「いやだー」の本音を出せた、と思うのです。」
林 : 「私は「抱きしめるしかない」なんてとんでもない、というふうに気が付いたように思えます。見ていて「いやだー」がとても深かったんです。しかし、片伯部さんと私の二つの理解の双方の要素が彼女の中にあったかもしれませんね。」
片「どちらの要素が重いかということですね。謎解きみたいですね。いつか道子さんが、自分で詳しく説明できるときが来るかもしれません。」
雲泥 : 「それから彼女がはじけて開いたときに「初めて愛され抱かれたようだった。ふるえるような感触」というところがありますね。生まれて初めて、というレベルの体験だったんでしょうね。」
林 : 「そうです。そして、周りの人は彼女が開く前と後でそんなに変わらないんです。彼女自身がはじけて、周りの人々とつながった感じがしたんです。はじけて、むしろ彼女自身が周りの人々を抱いた、という感じがピッタリだったんです。周りは同じでも、その人の感じる深さで、いろんなことが起きてくるということだと思います。」
注10-2「ブレスワーク」
ここでは意識教育アコールで行われる呼吸を用いた心理療法を言う。方向性が無く、自然に起きるプロセスを重視する。
注11「自分のことをやる」
この意識教育アコールでよく使う言い方で、ある問題が生じた場合に、その問題の心理的原因の一部は自分の中にあることが多いので、あるいは他人の持つ心理的原因については本質的に関与できないので、自分に関する部分の心理的原因を探り理解する作業を行うことをいう。
注11ー2「~というところには、いない」「~というところに、いる」
この意識教育アコールでよく使う言い方で、ある心の状態にある、または、状態にないことをいう。心の成長(自分の心の傷の全体を理解していくこと)に従って、心の状態は次々に変化し、何か道あるいは地図の上を移動していくように感じられるので、この「ところ」「いる」「いない」の言い方がピッタリする。
注11ー3「プロセス」
この意識教育アコールでよく使う言い方で、主に、成長しようとして自発的に心が変化していく過程をいう。心の成長に伴う心の変化は、あたかも何か決まった過程に従って生じるように思われることが多いので、この語を使う。これに対し、成長に背を向けたことによって生じる心の変化は、プロセスとは呼ばないことが多い。もっとも、心の変化が自発的で継続的であれば、成長しようとする意志はなくても、人は必ず成長するという性善説のニュアンスも含まれる。思想や教義によっての変化は、自発的でなく、プロセスとは呼ばない。
注12「外側」(反対の概念で「内側」という言い方がある)
この意識教育アコールでよく使う言い方で、心の奥底のことを内側という。これに対し、心の表面的なこと、自分の体、他人との人間関係や仕事などを外側ということが多い。たとえば、自分の感情がはっきりするようになった、体調が良くなった、親との人間関係が良くなった、などのを「外側の変化」といったりする。また、「内側が良くなれば外側も良くなる」などともいう。
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