ベビーブレス体験集(本の内容)
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
加山恵(仮名) 36歳 兼業主婦
32歳の時に、大きな落ち込み(鬱状態)がきた。
夫の職場で恵さんと一緒に働いている義理妹(英子さん)に対する関係がうまく行かなくなる。自分を否定されたりバカにされたりするようにとれることを言われると、落ち込んだ。簡単にカクッとなった。英子さんは、恵さんを傷つけようとしている気はないのが分かる。しかし、それどもだめだった。落ち込んだ。落ち込むと何にもやりたくなくなった。落ち込みは何日も続いた。一ヶ月も二ヶ月も。
義理の妹の英子さんに対して、ライバル意識が強かった。英子さんの前では、いつも緊張していたように思う。自然な素直な自分が出せず、4年ぐらい英子さんで苦しんだ。夢にまで出てきた。嫌でたまらなかった。妹と一緒に仕事をしていて、不満だらけだった。結婚するときも英子さんと一緒に仕事をするのは一番不安だった。
夫と英子さんは兄妹仲がよかった。特に英子さんは兄(恵さんの夫)にべたべたする感じだった。妹に甘い夫がいやだった。「もっと厳しくしてよ」と思った。その仲がいい様子を見るのはいやだった。恵さんは、その間に入っていけない感じがした。恵さんは自分の存在を無くしてしまう気がしたのだ。
そのうち、英子さんとは、職場でツンツンし合う関係になってしまった。英子さんも、恵さんに兄を取られた感じがしていたのかも知れない。
例えば、朝来て「おはよう」と挨拶をする。英子さんの顔を見たら、機嫌悪い様子だ。すると、ほぼ1日口を利かないで過ごした。口を利いてもつっけんどんになった。ある時は、英子さんが、お茶の時間になってみんなにお茶を出してくれたが、自分にだけは出してくれない。ショックだった。恵さんもそのことについて「私には入れてくれないの」とは言えない。自分でお茶を入れようとも思わなかった。そのままじっと1日、仕事をした。英子さんは、とても冷たい人のように思えた。
落ち込むと何にもしたくなくなる。寝ていたくなる。夫がそばに来るのもいや。さわられるのもいや。しかし、ただ寝ていると、だらしないと自分をせめて、よけい苦しくなる。更に、落ち込む。
でも、仕事や家事や育児は何とかこなした。だから、他人から見ていると落ち込んでいるとは見えない。もともと、恵さんは頑張り屋だった。体が凝っていても自覚がなかった。凝っているところを強く押さえられても痛くなかった。本来なら痛いはずなのに。
36歳の時に、再び大きな落ち込みがきた。
義理姉(敬子さん)が外国から帰り、職場に加わった。始め、義姉と職場を共にすることに対し、とても不安を感じた。しかし、やってみると思っているほどではなかった。逆に、義姉の敬子さんは良き理解者であり、英子さんとの間のクッションになってくれたのである。私が今まで、英子さんのことで悩んでいたことを敬子さんも同じように感じている事が分かったので私はとても助かった。しかし、それもつかの間1、2年が経つと今度は敬子さんとうまくいかなくなってしまった。
敬子さんは、器用で何でもこなせる人だった。人付き合いもとても上手だ。そうすると敬子さんの存在が大きく感じられ、自分の存在をなくすのである。劣等感が、落ち込みを起こすようだった。頭のいい敬子さんと比べて自分ができないことがあると。グーと落ち込んだ。ほんとに小さなこと、例えば、ある漢字一つが読めないことで、仕事が手に付かなくなった。義理姉妹が怖くなった。自分が弱い存在になってしまう。自分の弱さを知られるようで怖い。やりこめられるのが怖い。バカにされるのが怖い。しかし、妙なことに、実際には、やりこめられたりバカにされることがあるのではなかった。恵さんの心の底からくる恐怖だった。
また、ある時、職場へ、敬子さんが、小学5年生の算数の図形の問題を持ってきた。お遊びだった。夫は、そんな問題が好きだった。みんなに解けるか聞いて回った。恵さんは、その問題ができないとバカにされると思いこんで、その問題を解くことに執着してしまった。必死になって解こうとした。英子さんは、自分には分からないと言って、解こうとしなかった。淡泊だった。うらやましかった。恵さんには、その問題は、結局解けなかった。
また、ある時、恵さんは夫と敬子さんともども車で出かけることがあった。車中で、恵さんと夫が話していたら、夫が、何か彼女には分からない車用語(英語)を使った。恵さんは、その英語がよく分からないまま、誤った話を続けたので、会話がとんちんかんになった。そのとき、英語圏外国の生活経験のある敬子さんが、その誤りを「だから、それは・・・(その内容は恵さんは覚えていない)でしょ」と、なにげなく指摘した。カチンときた。不機嫌になった。敬子さんには悪気はなかったようだ。それでもだめだった。車が着いて、ドアを閉めるときに、思い切りバタン!!としめた。夫も敬子さんも、恵さんが何で不機嫌になったのか理解できなかった。夫に注意された。自分でも大人げないなと思った。でもますます不愉快だった。バカにされた感じがあった。その奥には、敬子さんに自分を認めてもらいたいという気持ちも隠れているようだった。どうしょうもなく2、3ヶ月落ち込んだ。
また、ある時、カウンセリングを受けた夫が、そのカウンセリングの中で、親兄弟や家族の性格を聞かれていた。そして、恵さん(妻)のことを評して「幼い」性格と言っていたのを知り、すごくカチンときた。バカにされた感じだった。
両親は農業を営み、恵さんは大家族の中で育った。父は11人兄弟、うち二人死亡。叔父、叔母と共に小学校の頃まで同居していた。
私は、4歳以下ぐらいの記憶はほとんどない。母から良く聞かされた話だが、祖父におんぶをしてもらい、子守をしてもらったようだ。祖母は、病弱だったイメージが強く、祖母と留守番をしていて、凄く退屈つまらないという記憶がある。
小学校にはいるまでは、子どもらしいところもあったように思うが、小学校に入ってからは自分の気持ちを素直に表現せず、隠すことが多くなったような気がする。素直にできない分、駄々をこねるようなわがままなことを泣いて訴えた。欲しいものがあると買ってもらう。折り紙で風船の折り方が分からないと駄々をこねる。母は、近所の友達の家まで行って折り方を教えてもらってきたことがある。わがままな事をしても叱られなかった。
両親は仕事に忙しく、放任されて育ったイメージが強い。変に泣いたり、ギャーとやるけど受けとめてもらえない。何もやってもらえなかったという思いが強い。もっと関わって欲しかった。抱いて欲しかった。上手に甘えられなかった。家では、自分の存在がなかったように思う。両親は、自分のことは全然心配していないように思え、自分はいてもいなくてもいい存在だったように思える。おとなしい子だった。
小学校6年の時、とても優しい担任の先生との出会いがあった。いつも休み時間には、先生の所に集まり,抱っこをしてもらったり両脇にくっついている生徒がいた。私は、その先生を独り占めしたくて朝早く学校へ行った。甘えたくて、両親にもらえないものを補おうとするようだった。毎日、一時間目は心の勉強と言っていろんな話を聞かせてくれた。とても興味深かった。自分の中の甘えたい気持ち、自分の本当の気持ちは、全部親に隠して大きくなった。親には何も相談しなかった。母は、良く笑われるから泣くなと人目を気にするようなことを言った。
23歳のときにノイローゼになった。職を辞めて、看護学校に通っていた。後もう少しで正看の資格がもらえるというところで、挫折した。普通だったら、看護婦の職業以外への方向転換もあったはずなのに、そんなことは全く考えられなかった。懸命に頑張った。そして、疲れて、乗り切れないんじゃないのかなと思ったら、もうだめだ、自分は破滅だと思った。みんなから笑われる、バカにされると思った。そうしたら、ひどく落ち込んだ。 元々小さい頃から、看護婦という職業を目指していたわけではない。みんなに認めてもらいたい気持ちが強く看護婦になろうとしたのだった。
ちょうど、看護学校では精神病院での実習だった。患者さんを見ていて、自分もこんな状態になるぞと思えた。一人暮らしのアパートで、自分は自殺してしまうんではないかと思えた。それなのに、大家さんは、自分に、こんないい部屋を貸してくれている。よけい、落ち込んだ。一人部屋で横になっていると、部屋が揺れているような、地震のような感じがした。このまま死ねたらいいなと思った。
看護学校にも行かない。ご飯も食べない。風呂にも入らない。外にもでない。閉じこもり状態になった。友達が心配して見に来てくれた。そして両親が、学校から連絡を受け心配で飛んできた。実家に戻された。
実家に戻ってそのまま3ヶ月、寝込む。寝てばかりいる自分を責める。自分がいやになる。小さな頃のいやな思い出が次から次と夢となって出てきた。
例えば、小さな頃に同居のおばさんがいた。やがて、そのおばさんは恵さんが小学5年頃に結婚して、結婚した相手先に、自分たち姉妹や従姉たちを挨拶させるのに連れていくことになった。そのときに、そのおばさんが、恵さんだけ一人を「連れていきたくない」ということを言っているのを、恵さんが”聞いてしまった”。連れていきたくない原因は、恵さんがあまり大人しすぎたためかどうか、はっきりは分からないが、とても傷ついた。そんなことが出てきた。
本を読んで意識教育研究所のことを知って、意識教育研究所にやってくる。でも、あまり状態は改善しなかった。共同生活が辛く感じ、嫌でたまらなかった。帰りたいと言って親に迎えに来てもらう。直ぐに家に連れ戻された。
しかし、実家に帰っても更に辛かった。親に、精神病院に連れて行かれる。その場で入院することになった。病院からフェンスをよじ登って逃げ出そうとし、つかまって、鍵のかかる部屋に入れられた。1週間ほどで退院する。
その後、親の反対を押し切って、家出同然の状態で、再び意識教育研究所にくる。そこでは、周りの人から十分に関わって世話してもらったり、健康的な共同生活するので、とてもよかった。表面的には、健康を取り戻した。内省にはうまくは入れなかった。ピンとこなかった。
意識教育研究所の時代に知り合った人と結婚した。夫は建設業を営んでいた。頑張り屋の恵さんを気に入った。妊娠、出産で、あっと言う間に時が過ぎた。忙しさに気持ちが紛れていた。子供がよちよち歩けるようになって、少し余裕が出た。そして、問題が起きた。前記したような大きな落ち込みがやってきた。
恵さん自身は、母親をバカにしていた。母の性格は、何にも言わないような人だった。その存在をあんまり感じない人だった。人はいいが、母親の権限のようなものを持っていなかった。
一番上の兄も、母をバカにしていた。兄は高校の頃、問題を起こし、親に迷惑をかけていた。弱い母を良いことに、兄は母を泣かせていたように思う。小学校低学年だった私は、側で、泣いている母をじっと見ていた記憶がある。だから今でも兄を許せないようなところがある。いつも母をバカにしている兄は嫌に思う。現在も老いては子に従う母である。言われるままにしている母も私は嫌だ。
恵さんの兄姉たちは、夫の兄妹たちと違ってあまり話をしない。恵さんにとっては、この兄姉たちは肉親でありながら血縁が薄く感じれらる。兄姉が集まってもなんか淋しい。自分が出せない。自分の気持ちが言えない。どうしてか分からない。兄姉なのに凄く気を使って素直な自分を出せないでいる。年の差を感じる。兄姉のような感じがしない。家庭が暗く感じた。ノイローゼになる前、叔父の家に行った時に、叔父の家庭を自分の家庭を比較して、どうしてこんなに違うのかと思い、落ち込んだ事があった。親子の仲がいい会話がうらやましかった。
恵さんの幼い頃に、恵さんや兄や母のことをバカにした誰かがいるはずだが、恵さんには、誰だか分からない。いるのかどうかも分からない。
恵さんは4人兄姉で、思えば、一番上の兄貴とはあまり話しをしなかったが、二番目の兄貴には、傷つけられることが多かった。二番目の兄貴よりも恵さんは8歳年下だったので、恵さんのことを「かわいい」とは思っていてくれたのかも知れないが、いつも「みそっこ」扱いだった。いつも一人前に扱ってくれなかった。
夫の兄妹(夫と義理姉妹)は兄妹仲がよかった。その中に、恵さんは入っていけない感じがしていた。よそ者のような、みそっこのような感じがした。
落ち込みのこと以外でも、恵さんは自分を変だと思うことがある。
例えば、職場でお客さんにもあまり上手には話ができない。カウンセリングも言葉で相談するよりは、手紙で相談した方がうまく自分を表現できる。言葉で言っても分かってもらえる感じがしない。夫にも、大事な話は手紙でする。そもそも、自分のことをうまく伝えられない。自分は変だと思う。
また、長男(豊 小学三年生)には異常なくらい関わってしまう。あたかも自分が関わってもらえなかった分を補うように厳しく育てる。豊は自分のようには、ならないようにと、懸命に関わる。厳しくし過ぎてしまう。そして、叱ると止まらなくなる。例えば、学校の宿題を早くやれ、やっている時間が長すぎる、だらだらするな、ボーとするな、もっと集中しろ、と言ったり、そんな気持ちになったりする。それなのに、長女(いづみ 小学校1年生)には、甘くべたべた優しくしてしまう。
意識教育研究所が解散した。意識教育研究所から分かれた意識教育アコールのブレスワークに参加するようになった。3年間ほど熱心に参加を続けている。
初めの頃は、なかなか自分の中に入っていけなかった。何かを抑え力が強かったようだった。傷の深さをうかがわせられる。以下は、ブレスワークやベビーブレスを行ったそのとき時の恵さんの感想などをまとめた簡単な記録である。(メモ。この部分、特に恵さんの掲載許可が必要。あるいはかなりの部分を省略するか。恵さんからの手紙が提供されたら、その手紙を優先して、この部分を無くすことも考える。)自分の中に深くはいるまで、あきらめずにブレスワークやベビーブレスを続けた記録として、後に続く人々への激励になると思う。
1997年11月XX日
少し自分の中に入れて、感情が出たが、胸や肩で感情を抑えているようで深くは入れない。
12月XX日
ブレスワークの前半は自分の中に入れたが、後半は白けて時間が長く感じたりした。心の奥に、何かが「まだある」という感じだった。
1998年 1月XX日
父に閉じこめられた恐怖がでる。「助けて、許して下さい」。始めの呼吸がだるくて腕に痛みがでる。
2月XX日
始めの呼吸で感情が出る。悲しみ、母の悲しみ、母がかわいそうという気持ち。
3月XX日
自分の中に入った。初めて深く感情が出た。なくなった義理のお母さんにまで自分の気持ちを訴えることができた。
4月XX日
自分の中に入れなかった。何もない感じだった。呼吸だけが続く。諦めた。棒のように寝ていた。頭痛がした。
5月XX日
最後まで立ってブレスワークする。自分の中に、少し入る。時々入る感じ。例えれば、火がつくが燃え上がる感じはしない。
6月XX日
感情を出したくて、ブレスワークに来る。入る。
8月XX
入る。良く感情が出る。
11月XX日
入れるまでに時間がかかる。出てきた感情は、悲しみではなく、お母さんに「甘えている感じ」だった。
1999年 1月XX日
スムーズに入れた。悲しみだけが出てくる。叫ぶ。小学校以前の悲しみ。漠然と悲しい。どうしてかと思うほど悲しみが続く。
2月XX日
義理の姉と仕事をしていてイヤな感じ。そのときの感情が出る。職場に彼女がいないとのびのびする。「馬鹿やろう」と彼女をやっつける。「あんたさえ、いなければ平和なのに」「いないで欲しい」と訴える。実は、この気持ちは自分の本当の姉に対しての気持ちかもしれない。姉がいることによって自分は愛されない。自分の存在がなくなってしまう感じ。今回は心の中のイヤな物を出す感じでやった。
3月XX日
「おーい」「もうイヤだ」という言葉が出た。この言葉が自分の気持ちにぴったりだった。寂しさを窓にして、自分の中にから入っていく。朝農作業に出ていく親に置いて行かれた寂しさがでる。スタッフに補助されて、寂しさが絞り出される。寂しさに浸る。「いやだ。イヤだ」という。感情が出ないように自分を抑えている自分が最終的にはイヤなのか。手がしびれて気持ちいい。深く泣いていた。ダンスは良かった。次のダンスはもっと自由に表現したい。
4月XX日
仕事で、なぜあんなに頑張るのだろう。自分の存在を高めたい、認めてもらいたいという気持ちなのか。原因が分からない。小さい頃から良い子を演じ、悩みがあっても親に話せなかった。頑張らなければ自分の存在を認めてもらえなかった。ただ深く泣く。頑張らなくても認められたい。自分の存在をなくしたくない。義姉に対する対抗心も、原因はそこにある。今は昔ほどの落ち込みはないが、その分妙に頑張っている。仕事で頑張れるけど、疲れる。良い子でなんかいたくない。仕事で成果を達成してもあまり満足感がない。
4月XY日
赤ちゃんに戻った感じで泣く。忙しい親だった。朝おっぱいを飲ませたら、その後は放りっぱなし。ほっとかれた。淋しかった。こんなに淋しいのが「分からないのか」。淋しい気持ちを受け入れてもらってない。両親に「早く来て」と訴えて訴えて、それでも見捨てられる感じ。いつも見捨てられる感じ。親に捨てられる感じなんだ。
昨日の夜(一泊セミナーの一日目の夜のシェア)のことがショック。スタッフの林、片伯部に見捨てられてしまうという恐怖。ベットの中で泣いていた。今日は(セミナーに参加するのを止めて)帰ろうと思っていた。「抱きしめて。あたしはここにいる。抱きしめて」というのと同じ気持ち。また、ここ(セミナー)に来て良いのかなと聞きたかった。自分のことをもっと知りたい。初めて、みんな(参加者)の前で、心が大きく開き、はじける。大きな体験だった。恵さんは何かを乗り越えた。
5月XX日
先月の続きがでる。小さい頃に、農作業に行く両親に置いて行かれた淋しさから、入る。怒りも出てくる。淋しいと泣いていたとき、一度だけ母から手紙をもらった。母は忙しく、自分におっぱいを朝飲ませると昼まで置いていった。仕事が辛かったらしい。その辛さ、苦労が手紙に書いてあった。その苦労は分かるが、それでも怒りがこみ上げる。怒りを出したいが出し切れない。感情は出している。出している感情がなんの感情か分からない。「おーい」怒りと淋しさが入り交じっている感じだった。
義理姉妹のことで落ち込むことは、今のところ、無くなった。特に、4月のブレスの体験が大きかったように思える。義理妹の英子さんとは自然に楽につき合えるようになった。と同時に、どういう訳か英子さんも変わってくれた。仲は改善された。また、英子さんが自分にだけはお茶を出してくれなかったら、今度はどうする、という問いに、「あら!あたしには!」と言うはよ。恵さんは笑って言う。
義理姉の敬子さんのことは今も気になってしまうが、それまでのように敬子さんのことで誰かに愚痴をこぼすことが無くなった。
二人の子供に対する態度は全く変わってしまった。しかし、恵さんには、その認識はない。
意識下に「見捨てられてしまう」という恐怖がありました。頑張っている間は認められ、見捨てられない可能性がある。そうやって、人生を長い間、頑張ってきたのです。何とかやってきたのです。頑張るためには、自分の中の根元的な深い部分の恐怖を避けなければなりません。恐怖に震えながら小さな子供が頑張ることはできないからです。意識下に抑圧しなければなりません。しかし、深い抑圧があるうちは、本当の自分、健康な自分にはなれるはずもありません。そのジレンマに長い間、苦しんだのです。
本当の自分ではあり得ず、自分の存在が無くなってしまう感じになり、自分で生きていく感じがないのです。ノイローゼにもなり、落ち込みもでてきました。
その苦しみ、不全感から、何とか抜け出したいという思いで、恵さんはねばり強く長い間ベビーブレスを続けました。ベビーブレスをしてなかなか自分の中に入っていけないと、とても苦しい。抑圧を外そうとするベビーブレスの力と、抑圧し続けようとする習慣の力が、ぶつかるからです。しかし、自分の不全感が何なのか、求める気持ちが強く、それでも時々は自分の中に入っていったときの感じから、自分にはベビーブレスしかないと確信したようです。
そして、ベビーブレスで徐々に意識下に深くはいり、浄化することで、恵さんは気が付かないうちに徐々に変わっていきました。そのようにして準備ができ、ある時、みんな(参加者)の前で心が大きく開き、はじける、ということが起きたのです。本当の恐怖、悲しみ、淋しさを味わうことができました。そのとき、自分の心の中に「見捨てられてしまう」という根元的な恐怖があることがオープンにされ、自分でも、はっきり認識することになったのです。執拗な抑圧が消え始めた。後に、恵さんは「自分の気持ちを隠していた、出せないできた」と言いましたが、以前には恵さんの口からは出たことがない言葉でした。自分の本当の悲しさ淋しさが分かったから、認識できたことだったのです。自分の内側を掘って(注13)いって、ついに自分の本当の悲しさにまで堀抜くことができたのです。そして、本当の自分を取り戻し始めました。取り戻すにつれ、落ち込みなどは、ただ消えていきます。
見捨てられてしまうという恐怖は、農作業に出ていく両親に置いて行かれることに関係しているようです。また、恵さんは4人兄姉の末っ子で、みそっ子扱いされ、一人前に扱われない経験にも関係しているのかも知れません。しかし、当時の多くの農家の子供が、同じ状態にあった中で、恵さんだけが深い傷を負ったのには、更に深い理由があるはずです。したがって、恵さんにとっては人生の地図が全部解けたわけではありません。しかし、既に、長いトンネルは掘り抜かれたので、後はトンネルを掘り広げるだけで、徐々に解けていくことでしょう。
最後に恵さんの許可を得て、彼女からのからの手紙をそのまま掲載させていただきます。
「いつもお世話になっています。 お陰様で最近は落ち込むこともなく、自分が望むように意志表示をし、仕事ができることに喜びを感じています。一泊セミナーの時には、さみしさをいっぱい訴え疲れるほどに泣きました。だれかきてーと。私はここにいると訴えても訴えてもだれも来てくれなかった思い、スタッフが来てかかわって欲しい気持ちと両親への気持ちがかさなりました。さみしさのあとにに怒りがでて、私を見捨てるなと思いっきり足でけりました。おーい、おーいと呼ぶ心境と、バカにするなーという心境がぴったり合っていたように思います。片伯部さんが言ってくれたように、両親が忙しく仕事をしてまじめに働き、その為のさみしさなら、子供は傷つかない。確かにそう思うのですが、私は小さい頃から、ほーりっぱなしのようにされていた思い、放任主義の両親だったとずーと思ってきました。高校の時、旅館でアルバイトをしようと思ったとき、初めて、父親に反対され、中止しましたが、内心、私のことを心配してくれているんだと実感できた出来事でした。小さい頃から自分を必要とされていないような感覚、家(実家)にいても自分の存在がない感覚、これがどこからきているか、今後、さぐって行きたいと思います。」
林 : 「恵さんはベビーブレスをやってもなかなか自分の中に入れませんでしたね。その様子を見ていて、恵さんの心の中に大きな傷があると思われますが、そうかといって、恵さんの記憶の中には、親にひどい暴力を受けたとか、置き去りにされたとかいう大きな事件がないのです。」
雲泥 : 「そうなんです。失礼ですが、例えばきれいに剥いたタマネギのように、爪のひっかっかるところがない。表面的には、手がかりがないんです。」
林 : 「私はご両親にお会いしたことがあるけど、いい人だし、善人だし、一生懸命働く人だし、・・・。本人に傷があるとき、大抵の場合には、親から傷を受けたことが考えられるのですが、恵さんの場合には、少なくとも表面的には親からの傷が見つからないんです。」
雲泥 : 「ひどい言い方になってしまうかもしれませんが、つるんつるんのタマネギみたいですね。」
林 : 「そうですね。ここが苦しかった、ここが嫌だった、というのがない。手がかりがないから、”刺さった矢”の抜きようがないのです。苦しみがずーっと続いたんです。こんなにいい親なのに、どうして自分は変なんだろうというふうに、恵さんは自分を責めるんです。
唯一の手がかりのようなものが、両親はただただ働き続けて、恵さんは両親に放任されて大きくなった。両親に「置いていかれた」ことがあったというところに恵さんは気が付いたんです。このことは、恵さんの心理的な状況を理解する上で、大変に象徴的なんですね。
象徴的なんですが、親との間で、何か大きな事件があったというような、はっきりした手がかりではなかったので、気づくのに大変に時間がかかりました。
こんなふうに親側に手がかりがないときに、自分の側を観るのが大切だと思います。親は、少なくとも外側ではいい人なんだけど、本当には自分の気持ちをわかってくれなかった。親に自分の心の細かな状態をわかってもらえなかった、ということに気づくことですね。その為には「自分の心の細かな状態」に自分自身が気が付かなくてはならないようです。この自分自身が気が付くということに、非常に時間がかかります。
自分自身が気が付いて、それから、自分の親は、自分の気持をわかる感覚を持った親ではなかった、ということが理解できるようです。
雲泥 : 「こんな微妙な状況にある人は、現在増えていますね。今から先の子供たちは、多くの子供たちがそうなっていくのかもしれませんね。」
林 : 「いい親の背後にある見えない不健康な”鈍感さ”のようなものを見破って行けばいいのですが、そのような不健康さは、分かりにくいことが多いのです。」
雲泥 : 「そういう意味では、初めから悪い親の方が、子供にとっては分かりやすいし、やりやすいかも知れませんね。自分を丸出しにして本音で生きていく親の方が、ですね。」
林 : 「そうです。問題となるような場合には往々にして、本音じゃないんです。悪いこともしない。仕事もする。そこそこに、外見的には愛情のようなものもかけてくれる。必要なものは買ってくれる。学校にも出してくれる。食べ物にも事欠かない。しかし、子供の心には鈍感なままになってしまう。そんな親が多くなってきているとおもいます。
子供は、自分の心が不健康になっても、親のせいだとは思えません。親に対してNOといえない。そして、そんな親に対する自分の不満に気づくことさえ怖い。そんなことじゃないかなと思います。」
雲泥 : 「そうですね。」
林 : 「恵さんの場合も、自分が「放任された、精神的なことを受け入れてもらえなかった」と気が付くまでにすごく時間がかかりましたね。」
雲泥 : 「放任というと、放任されること自体が悪いのかという感じになりますが、その裏に本当の愛情、というか親の健康さがないから、悪いということであって、一生懸命かかわってもやはり健康さがなかったら、過干渉ということで、悪いことになります。親が健康であれば、放任しても、子供はたくましく育つかも知れないし、一生懸命かかわっても愛情豊かな子になるかも知れない。要は、精神的なことなんでしょうね。」
林 : 「そうですね。恵さんの場合も、必要なものは買ってもらっているし、世話もしてもらっている。恵さんの場合は、放任というのは、精神的な放任という意味で使っています。普通にいう意味の”放任”であれば、つまり世話も満足にしてもらえなかった、欲しいものも買ってもらえなかった、というのであれば直ぐに気づくし、見抜く必要もありません。手がかりはあるのです。つるんつるんのタマネギにはなりませんね。」
雲泥 : 「もし、本人は深く病んでいて、重いノイローゼにもかかるのに、親はいい人でした、というのであれば、それこそ本当のミステリーですからね。」
林 : 「恵さんをライフリーディングした際に、彼女の人生には数回の落ち込みが周期的に起きていて、その落ち込むきっかけには、ほぼ共通する要素があることが判明していました。何か決まった原因があるようだというのは、既に分かっていたのです。ベビーブレスで、その原因がようやく観え始めたのです。恵さんは、自分が精神的に「置いて行かれた」ことで深く傷ついたことに気が付いた。親は、だだ働くだけで子供には気が回らない。気が回らない親になったのには、親自身にも傷があるのだけど、その傷については恵さんは、今から気づいていくことになると思います。将来の課題でしょうね。」
雲泥 : 「そうなんですね。」
林 : 「恵さんは、自分の傷に気が付くまでは、自分がおかしいのは自分のせいだと自分を責めながら、懸命に頑張ってきました。頑張っては、時々、ガクーンと落ち込む。重いノイローゼになったり、深く落ち込んだりする。生きていたくないほど、ね。気が付かず意識下に抑圧された「置いて行かれた」ときの恐怖が出ていたんだと思いますね。」
雲泥 : 「意識下の恐怖に何とか負けないように、頑張るんですね。」
林 : 「恵さんはベビーブレスに、初めはずーと入れなくて、ものすごく苦しかったと思います。あきらめずに、よくコツコツ頑張った。求める力がホントに強いんだと思います。ほめて上げたいですね。長いつきあいだから分かるけど、恵さんは変わった。内面が変わった。深みがある。家庭の様子や、恵さんの話しぶりからも、わかります。」
雲泥 : 「恵さんの体験談に限ってベビーブレス記録を長々と載せさせてもらったのは、恵さんがいかに辛抱強く頑張ったかということを、わかってもらいたかったからなんです。逆に、エーこんなにたくさんやらないといけないの、と尻込みしてしまい、これからやろうとする人の可能性を潰すリスクもあるんですが、そのリスクよりも、あきらめずに頑張れば大丈夫という実証として、こんなに頑張って変わっていった人が居るという記録として、ここに載せたかったんです。」
林 : 「もちろん少ない回数で自分の中に入る人も多くいるし、たった1回で深く入ってしまう人もいますからね。」
雲泥 : 「回数は、その人その人の傷の深さや傷の具合で決まってきますから、各人各様ですね。」
林 : 「恵さんは長い間入れなかったけれど、その間も、少しずつ自分の感覚を取り戻していたことが、わかるんです。心の深いところでは、自分を取り戻しているのを理解いていたと思います。そういう喜びがなければ、恵さんのように、長い間続きません。ベビーブレスを続けるうちに、なんかあるぞ、ホンのちょっとのことだけど、なんか深いところで変わったぞ、そういう感覚があるんですね。」
片「一生の問題なんだから。10回でも、100回でも、本当に望むんだったらやればいい。変わる可能性があることが少しでも体感できるんだったら、その可能性に賭けるべきだと思いますね。」
林 : 「ベビーブレスは、自分の体験として、自分の実感として、自分の実力として身に付くというところがあります。何か方法を説かれたとか、考え方を学んだとか、そんな表面的なことではなくて、その強みは大きいですね。」
雲泥 : 「大きいですね。理屈ではなく、感覚が研ぎ澄まされてくる、深くなる。簡単に言えば、ただ呼吸するだけなのに。」
林 : 「それは、ベビーブレスを続けている人はみんな分かっているんですね。自分の力で掘っていける感じが。だから、続けてやるのでしょう。」
雲泥 : 「そんな感じですね。」
林 : 「恵さんのように、ベビーブレスを続けても、なかなか自分の中に入っていけないときに、やはり自分の中にはなんかあるぞ、なんか岩盤のようなものがあるぞ、という感覚があります。その感覚をつかんでいくこと自体が、役に立つのです。いつか岩盤を突破する力になるからです。
自分はどうして入れないんだろう。どうして自分の感情を抑えているんだろう。何があるんだろう。少し感情が出て、それが両親に関係しているような感じがあれば、一体両親には何があったんだろうなどと、自分で探っていくことができます。自分を追求していきます。その追求自体が実力になるのですね。」
注13「掘る」
この意識教育アコールでよく使う言い方で、自分の心の傷に気付いて心を回復していく作業を行うことをいう。「掘り進む」ことを、「深くなる」ともいう。
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