より詳しいベビーブレス体験
アコールのベビーブレスのセッションを体験された方々の記録です。許可を得て掲載しています。
アコールのベビーブレスのセッションを体験された方々の記録です。許可を得て掲載しています。
私はふたりの子どもを持つ母親です。上の子がまだ一歳半のときに子どもの子育てについての考え方の違いから私の両親ともめたことがありました。そのことで、以前から親と意見が食い違ったとき私の言い分なんて聞き入れてくれることなどなくいつも抑えつけられてきたということを思い出した。私と親との関係はなんだか一方通行だな、何でだろう・・・と思っていた頃に友だちから林先生が岡山でグループカウンセリングを開くから参加してみたら?と言われて、自分と親との関係が変えられるのなら、と思い参加してみました。私は人見知りが激しくて人前で自分の意見を言うことなんてできないので、グループカウンセリングはどうだろうと思っていました。
前もって自分と親との関係について話そうと考えていましたが、いざ話してみると口から出てきた言葉は「子どもが泣くのをガマンするんです。」というものでした。自分でも意外でした。でも、上の子は一歳を過ぎた頃から、悲しいとき、つらいとき、痛いとき、すぐに泣けずにまずガマンしてしまうようになっていました。「なんで、この子は泣くのをガマンするんだろう・・・」それが私の頭にいつもありました。
私自身何かとガマンしてしまう性格でそういうところが「私と親との関係」やいろんなことすべてにおいて悪い方向に働いているような気がして、「私のようにはなってほしくない」いつもそう思っていたからです。だから、そのことが口をついて出てきました。
そして、なぜ自分がガマンしてしまうようになってしまったのか、自分の生育歴を話し始めたときに林先生から「ちょっと待って!笑いながら話すのは止めようよ。今話していることはとってもつらいことで笑いながら話すことじゃないよ。そういうクセがあるでしょう?」と言われました。その言葉にハッとして急に涙がボロボロあふれてきました。
つらいとき、淋しいときに泣くことができずにいつも笑ってごまかしていた自分に気づかされ、認識させられて、産まれてはじめて自分のために流した涙であり、自分のつらさや悲しみをわかってもらえたような気がしてうれしくて流した涙でした。
両親は私が4歳のころ離婚して、私と3つ違いの兄は父に引き取られました。その後父は再婚して、6つ違いの妹が産まれました。いつもいつも兄や妹と比べられて、「同じように育ててきたのになんであんただけ・・・」と言われてきました。
私は私らしく生きたかったのにそれは間違っていると言われ続けてきた。言いたいことも言えない。言えたとしても親と違う意見は認められず最後は必ず自分の意見を捻じ曲げるしかなかった。でも、それが普通だと思っていた。親が正しくて私が間違っているんだと思っていた。それくらい私の気持ちは親の支配下にあった。
それでも、どこかで親との生活に居心地の悪さを感じていた。中学のとき進路を決めなければいけなくて、初めて親の意向に逆らった。兄は大学進学のための高校に入っていた。親は当然私にも同じ道を歩かせるつもりだった。私は親の元から早く独立したかった。大学になんて行っていたらいつまでたっても親のすねかじりでいないといけない。これ以上親に恩を着せられるのはごめんだ。高校を卒業したら就職して自分の力でお金を稼ぎたい。そして、早く結婚して親のところから出て行きたい。そう思っていました。どうしたら親から離れられるか、そればかり考えていました。
そうして高校を卒業して、就職して3年目には知り合って3ヶ月の人と駆け落ち同然で結婚しました。とにかく親から逃れたい。そして、自分が安らげる家庭を作りたい。それだけだったと思います。
でも、それまで埋められなかった淋しさを結婚で埋められるはずもありません。結局子どもができなかったことと相手の不倫で9年近くの結婚生活にピリオドを打ちました。
その後、再婚してあきらめていた子どもを授かって念願の母親になりました。初めの結婚でどうしてもできなかった子どもが再婚してできました。うれしくて仕方なくて、可愛くて仕方なかった。その一方で、私は両親の愛情をあまり感じずに育ってきたのでどうやって子どもと向き合っていけばいいのかわからなくて不安になっていました。実母の記憶がないのでどんな風に子どもと接したらいいのかわからない。
子どもが泣くとどうしたらいいのかわからずにオロオロしてしまいました。そのせいか、上の子は赤ちゃんの頃からごく身近な人にしか笑わない子でした。私は単なる「人見知り」だと思っていました。だけど、林先生に「表情が青っちろい子ね」と言われて「人見知り」じゃなかったんだとショックを受けました。
私はずっとずっと頑張って生きてきました。頑張らないと認められない、そう思っていました。両親が離婚したことも実母が私と兄を捨てて出て行ったとは思っていませんでした。やむにやまれぬ理由があって「置いて行った」と思いたかった。だから、「いい子」にしていたらいつか帰ってきてくれる・・・そう思ってがんばってきました。
いつか迎えに来てくれるであろう実母に認めてもらえるように、そして二度と捨てられないようにがむしゃらに頑張ってきました。つらいことも悲しいことも、私よりもっとつらくて悲しい人がいる。私はまだましなんだから。そう思うことでもっとがんばれる、そんな気がしていました。頑張るしか生きる道がなかったのかもしれません。
だから、頑張れない自分は許せなかった。そんな風に自分を追い込むことしか私にはできませんでした。泣きたいときに泣けない自分、頑張ることしかできない自分、そういことがすべて自分の生育歴と関係があるなんて思いもしなかった。当たり前のように「ガマン」し、当たり前のように「頑張る」、そうすることで自分を防衛してきました。林先生と出会ってそんな自分がいたことに気づきました。
いちばん初めのベビーブレスのときは、ワークに入ったとたん、からだがしびれて動けなくなりました。手も足も金縛りのようになりました。何がなんだかわからないけれど、とにかく苦しくてつらかった。何を再体験しているのかもわからないまま終わりました。動けなくて窮屈で苦しくてただつらかった。そんなブレスワークでした。
2度目に受けたときも同じような状態になりました。苦しくてつらくてたまらなかったので、なんとかしてこの状態から抜け出せないかと思わず「助けてー!」と叫びました。するとどうしても動かなかった手足が少しずつ動き始めた。自分が抑えこんでいる感情を開放していったらこの状態から抜け出せるかもしれない、そう思って叫び続けました。
2度目のブレスではお母さんのお腹の中よりももっと以前の時代にさかのぼりました。私の今の年齢からどんどんさかのぼっていく中でいちばんのびのびとしてにこやかで幸せそうな自分がいました。私は産まれる前、胎児の時代からすでに傷ついていたのかもしれない・・・そのときはただ漠然とそう思っていました。
ちょうど一年前、だんなが頭位性めまいで1ヶ月ほど寝込みました。だんなが重い腰をようやくあげて「林先生のところに行きたい」と言い出しました。今までは岡山でセミナーが開かれるときに参加していたので、先生のところへ行くのは初めてです。
せっかく行くのだからと私も3回目のベビーブレスを受けることになりました。そのときのブレスでいつものようにからだが動かなくなり、必死で叫んで吐き出して少し動けるようになっていました。
でも、足が鉛のように重くて何かが乗っかってるような感じでどうしても動かない。その自分の足元に父と実母がいました(*ベビーブレスの中で具体的なイメージや感覚を味わう人は多い)。片方の足をそれぞれが押さえているような感じ。父も実母も険悪なムードでした。まるで私を取り合っているようなそんな様子でした。
すると実母が私を悲しそうな目で見ながら私からどんどん離れて行きます。「待ってー!」と叫んでも叫んでもどんどん離れていく実母。私を見る目がとても淋しそうで悲しそうだった。去っていく後姿が小さくて、淋しそうだった。ブレスのあと、それがとても気になっていた。
私は小さいときから実母のことをあまり考えたことがなかった。実母に「会いたい」とも置いていった実母を「恨む」気持ちもなかった。
映画やテレビドラマを見て涙を流すことはできるのに、ご対面番組を見ると「うそ臭くて」涙も出なかった。何でみんな「会いたがる」んだろう・・・そう思ってた。だから、実母を探して会いに行こうなんて思いもつかなかった。
そんな私がこのブレスをきっかけに実母探しを始めた。自分の戸籍をとり、引越しを繰り返して本籍が変わっていたりしたのであちこちの役所に問い合わせた。今までは自分の戸籍すらまともに見られなかった。自分の母の欄に実母の名前が明記されているのを見てしまうことすら「罪」だと感じていた。それほど、実母のことを知ることは私にとって大変な作業だった。
ブレスで体験したことを自分の目でもう一度確認したかった。先生に出会って初めて自分から「知りたい」と思った瞬間かもしれない。
そうやって探して行って、ようやく実母にたどり着けると思ったとき、役所から電話があった。「申し上げにくいのですが、すでに亡くなられています。」とのことだった。頭のなかが真っ白になった。長い間、実母を追うことすらしなかった私がようやく実母に会う気になった。会えたら何を話そう、何を聞こう、どんな風にあったらいいんだろう・・・いろんなことが頭をよぎっていた。それなのに、もう会えない。しかももう20年以上前に白血病で亡くなっていた。ショックだった。
そうやって探して行って、ようやく実母にたどり着けると思ったとき、役所から電話があった。「申し上げにくいのですが、すでに亡くなられています。」とのことだった。頭のなかが真っ白になった。長い間、実母を追うことすらしなかった私がようやく実母に会う気になった。会えたら何を話そう、何を聞こう、どんな風にあったらいいんだろう・・・いろんなことが頭をよぎっていた。それなのに、もう会えない。しかももう20年以上前に白血病で亡くなっていた。ショックだった。
実母は再婚していた。実母をたどるために再婚先の戸籍も取っていたのでそれを見て、再婚したあとに子どもをふたりもうけていることがわかった。母の血を引いた弟と妹がいる。それもショックだった。再婚はともかく私たち兄妹を捨ててそのあとどんな気持ちでふたりの子どもを育てていたのか。私や兄を思い出すことがあったのだろうか。怒りにも似た気持ちが湧いてきたがぶつける相手がもうこの世にはいないことに自分の気持ちの行き場がなくなったような感じだった。
その後、実母の母親がいることがわかり、実母の再婚相手とその娘、それから実母の母親に会いに行くことになった。実母の母親に会って、実母のことをいろいろ聞いてみたが、親子関係の希薄さが浮き彫りになるだけで何の収穫もなかった。
それどころか実母の生育歴を知れば知るほど実母の人生がかわいそうで自分の淋しさや怒りを吐き出すことができなくなった。それからしばらくの間、私は自律神経失調症で体調を崩すことになる。ようやくたどり着いた実母なのに、もう二度と会えない。私がこんなにも必要としてるのに・・・。自分の思いが不完全燃焼したと思っていました。その頃の私は実母の死によって、私の中で少しずつ取り戻し始めていた実母に対する感情がもう吐き出せなくなったと思っていた。ぶつけることも受け止めてもらうこともできない。もうどうにもならない。そんな風に感じていた。
その当時は思いもつきませんでしたが、今思えば、そう思うことで自分の本来持っている感情から目をそらして逃げたかったのです。ぶつける相手がいないと思うことで自分の感情を封印したかった。自分の感情を認めて受け入れてしまえないために、自律神経失調症を招いたのだと思います。
去年の暮れのブレスでまたいつものようにからだがしびれて動けなくなり、いつものように実母に捨てられたときの私が出てきました。いつもその当時の小さな私が淋しさを抱えて泣いています。でも、いつもよりもっと深い淋しさを抱えている感じがした。すると、お腹にいる私を困った顔で眺めている実母の姿が浮かびました。子どもなんかできてしまってどうしよう・・・。そんな顔をしていました。私は望まれていなかった。両親の離婚で深く傷ついていたと思っていたけれど、私は胎児のころにすでに深く傷ついていたのです。胎児のころ傷つき、産まれてから必死でしがみついていた実母に離婚のときに捨て去られた。
4歳の私がこれほどのつらいことに立ち向かうには、自分のあらゆる感情を隠して抑え込むしかなかった。そうするしか生きる道はなかったのだと思います。私は今まで知らず知らずのうちにたくさんの殻をかぶって自己防衛をしてきました。
ブレスを体験して自分の感情を少しずつ取り戻していくうちに自分の周りの殻が徐々にはがれていくようにブレスのときの動けない苦しさも徐々に変化しています。ブレスを何度か繰り返してようやく感情のない自分の正体が見え始めたようです。
カウンセリングやベビーブレスでそういうことがわかってきたら、親との関係をどうこうするとか子どもをどうにかしたいとか、そんなことはどうでもよくなった。自分のことをもっとよく知らなくては何も始まらない。そう思いました。でも、自分っていうものを改めて観ていくと自分のことなのにわからないことだらけ。つらいとき、悲しいとき、いつも笑ってごまかしてきた。子どもが自分の感情を出せないのは「人見知り」で時期が来れば治るんじゃないか、そう思うことでごまかしてきた。
私は何でもそうやってごまかして、すりかえて生きてきた。そういうクセがあります。今まではそれも当たり前のこととして特に問題だとも思っていませんでした。でも、それがいちばんの問題だったと思います。自分の生き方のクセには理由がある。そんな風にクセとしてごまかさないと生きていけないほどの傷を持っている。自分の傷を知ることが自分のこれからの人生を豊かにする唯一の手立てだと感じました。
林先生に初めて出会ってから4年になろうとしています。少しずつ自分のペースでワークを続けています。日々の生活でどうしようもなく行き詰まってしまったときにワークを受けて自分の抱えている悲しみや淋しさを再体験しています。悲しみや淋しさの大きさを知ることはかなりのショックを受けますが、同時に自分自身の今までの生き方のつじつまが合って、自分をより深く理解することができるようになってきました。
今の私は自分の中のあらゆる感情を少しずつ取り戻しつつあります。「青っちろい」と言われた娘も5歳になりました。淋しさから逃れるための手段として望んだ息子は2歳です。
娘は周りの人たちから「表情が豊かになったね。」と言われます。泣きたいときに泣き、怒りたいときに怒る・・・自分の感情を抑えこむのではなく、吐き出すこと、生きていくうえで当たり前のようなことがようやく私にも少しずつできるようになったからかもしれません。
子どもが泣くと自分がつらくて仕方なくて何とかして泣き止まそうとばかりしていた私でしたが、それはあくまでも自分の問題なんだということに気づいてそれが少しずつ理解できるようになってきたら、子どもが泣くことも許せるようになりました。
物や言葉でごまかして泣きやませたり、ほったらかしにして一人で泣かせておいたりするのではなく、子どもの声に耳を傾けて気持ちに寄り添って、泣いている子どもに付き合えるようになってきました。つらいとき、悲しいとき、泣きたくなったら思いっきり泣けばいい。吐き出してきたらしっかり受け止めてやろう・・・そう思えるようになりました。
最近の我が家の子どもたちは「泣く」だけでなく、「怒り」をぶつけることもできるようになりました。でも、自分のことがまだよく理解できていない私は全面的に受け止めることができません。これから自分自身をじっくり観ていくことでしっかり受け止めるようになれたらいいなと思っています。
私の6つ違いの妹は結婚して埼玉に住んでいます。普段なかなか帰省できないこともあり、実家に戻ってくると2,3週間は必ず滞在しています。私は子どもができてから、妹が帰省するたびにおっぱいの調子が悪くなるようになりました。ひどいときには乳腺炎になって寝込んでしまいます。何かあるんだろうとは薄々感じていて、そのうちに、これは妹に対する嫉妬から来るのだと思い始めていました。妹が帰ってくると、実家での自分の居場所がなくなる。父や継母の愛情も妹に持っていかれる。そのせいだと思っていました。
今回春休みを利用して妹が帰って来ました。またいつものようにおっぱいの調子が悪くなった。まただ・・・。でも、居場所がなくなるから、愛情を持っていかれるからってはっきりわかってるのに、それなのにいつも同じ状態になるのは何でだろう?原因はもっとほかにあるのかもしれない。おっぱいの調子が悪くなるのと同時にいつも私のこころが落ち着かなくなる。それは妹のせいなんだろうか・・・。
そう考えててふと気づいた。妹が帰省しててもしてなくてもずっと以前から実家に私の居場所なんてないし、父や継母に満たされるほどの愛情を注がれたことがないのだから、持っていかれるほどの愛情なんて存在しない。
そんなことじゃなかった。私は継母と妹の関係を見て、自分に「母」と呼べる存在がないことを改めて思い知らされることが苦しくてつらかったのです。無意識のうちに自分のなかの実母の存在を消して生きてきた。実母を思い、実母を慕う、そんな気持ちは封印してきた。妹の帰省によって自分の中の「母」の存在がどんどん大きくなってきた。それと同時に実母に捨てられたときの淋しさや悲しみもどんどん大きくなる。
そんな自分を認めることがこわかった。自分が抱えてきた淋しさや悲しみの大きさに押しつぶされそうになるのがこわかった。それを防衛するためにからだに反応が出ていたのだとようやくわかりました。私はこんなにも実母を求めていたし、会いたくてたまらなかったし、淋しさを受け止めてほしかった。実母の死で行き場を失った私の感情が目覚めました。それを実感したらおっぱいの調子もすっかりよくなりました。
今回のブレス後にちょっとした出来事がありました。私はある会の前年度の会長をしていて、新スタッフへ引継ぎをしていました。役割分担があるのでそれぞれの担当がそれぞれに引き継いでくれたらそれですむことでした。ところが実際ふたを開けてみると担当ごとの引継ぎがどうもうまくいっていない様子。それぞれの担当に私がいろいろと掛け合ってもう少しスムーズに引継ぎができるようにお願いしました。私としては引継ぎがうまくいけばそれで満足するはずでした。 ところが、実際スムーズにことが運びはじめると、聞こえてくるのは新スタッフからの旧担当者個人に向けての感謝の言葉ばかり。「ちょっと待ってよ!私があれこれ手を尽くしたからようやくここまでこぎつけたのに。」私の中にいやーな気持ちだけが残りました。「いいところだけ持っていきやがって。」旧担当者に対して怒りすら覚えました。なんでこんな気持ちになるんだろう?
今回のブレスで私は継母にも父にも実母にも私自身を見てもらえないつらさを再体験した。みんな私を通して誰かを見ている。私という存在すら認識してないような感じだった。「私を見て!私はここにいるよ。なんでちゃんと見てくれないの?!」それが私の叫びだった。誰も私のことをわかってくれない。そう感じていた。
私はいつも何かしら自分のなかに抱え込んでいます。抱え込むのは苦しくて仕方ない自分がいます。それでも抱え込んでしまうのは、そういう状況に追い込まれるからだと思っていました。手放すのも抱えるのも自分自身なのに。
でも、私がそうしてしまうのは理由がありました。負いきれないほどのものを抱え込んでいる自分、ほかのことを犠牲にしてまでもこれだけのことをやっている自分、こんなにがんばっている自分を認めてほしいから。抱え込むことで自己主張したかった。そこまでやらないと、そこまでやっても自分の存在に誰も気づいてくれないと思っているから。抱え込むことで自己主張し、そしてその成果を認めてもらいたい。そう思っていた。
だから、私の努力が認められず「いいところだけ」持っていかれることにすごく腹が立った。
親たちに兄や妹と比較することでしか見てもらえない私は頑張って頑張って自己主張してきた。それなのに、兄や妹はいつも最後の最後にいいところだけ持っていってしまう。こんなに頑張っている私よりも兄や妹が愛されるのはなぜなんだろう?私は何をどうすれば愛されるのか・・・そればかり考えて生きてきました。でも、私に残ったのは比較され否定されることだけだった。
「泣けない」私が泣くのはいつもきまって「悔しいとき」でした。自分の気持ちが伝わらなくて悔しくて泣くことばかりでした。兄や妹ばかり優先されることが悔しくて泣いていました。私のなかには悔しさしかなかった。愛されるために必死で頑張っている私にとって「愛されない自分」なんて許せるはずがなかった。悔しさのあまり、ますます負けたくない、頑張らなくては・・・そういう気持ちになっていきました。そうやって生きてきたのです。抱え込んで努力してもいいところだけ持っていかれる・・・私が今までの人生で味わってきたことを、会の引継ぎを通してまた味わうことになりました。私はそうやって親たちで埋められなかった傷を普段の生活で埋めようとしていたということに気づきました。
私の抱え込むクセは家族にも影響をおよぼします。私は何もかも抱え込めるほど器用ではないので、そうやって抱え込んでいる間は、家のことも子どもたちのこともほったらかしになります。私は親から存在を認められない子です。そんな私が自分のだんなや子どもたちときちんと向き合えるはずがありません。
私は意識していないといやなことからつい逃げ出してしまうクセがあります。こんな風に抱え込んでしまうのも、だんなや子どもたちと向き合えない理由にしたいからだと気づきました。私は今こんなに大変な問題を抱えてるんだから、ほかのことは手につかない。カンベンして。そう思っています。抱え込む状況を作ることによって自分が逃げている事柄を正当化したかったのだと気づきました。
結局私は自分の存在を認めてくれない継母、父、実母と同じことを自分の子どもたちやだんなにしているのです。目の前にいるのに、自分の意識をそこから遠ざけている。そばにいても気持ちがない母親なんて子どもを傷つける以外の何ものでもないと思います。なんでこんなことをしてしまうのだろう?意識をしなければまたきっとやってしまう。
何でだろう?・・・起きてくることは違うけど、いつも同じところでつまずきます。それは、自分が受けたほんとうの傷を自分自身まだ理解できないからだと思います。林先生に出会って、いろんな自分を知ることができました。実母の死を知ったとき、実母の死にしがみついてそこから進めなくなりました。「過去と現実がかけ離れている」そう言われたのもその頃です。私の日々の生活、私と子どもとの関係、私とだんなとの関係、いろんなところに私が抱えているものが潜んでいます。
そこから逃げ出さずにしっかり向き合っていくことが本当の自分や本当の自分の感情を取り戻す近道なんだと思います。
ブレスを通して少しずつ自分の傷に触れていきます。でも、私が抱えているほんとうの淋しさやほんとうのつらさを私自身がまだ深く理解していない。そこまではまだまだ届かない。だから親と同じことを自分の子どもたちにしてしまう。つらすぎて淋しすぎて自分の中に押し込めたことを自分の目でしっかり確かめて自分のこころでしっかり受け止めていかないと、子どもたちにこれからもどんどん自分と同じ思いを植えつけていくのだと思いました。もっともっと自分のことをよく知らなくては自分の悲しみがそのまま伝わっていく。それだけはいやなので、自分を知る作業を繰り返していきたいと思っています。
まだまだ始まったばかりです。ずっとずっと昔、傷つけられてしまった私のこころ。どこでどう傷ついたのかどんなに大きな痛手を受けたのか、ちゃんと知ってるはずなのに自己防衛のために何重もの蓋をきっちり閉めてしまって私自身開け方すらわからなくなっている。ひとつずつ蓋を取り除いて自分の傷をしっかり観ていきたい。もっともっと自分を知りたい。本当の自分を取り戻したい。そう思っています。
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