より詳しいベビーブレス体験
アコールのベビーブレスのセッションを体験された方々の記録です。許可を得て掲載しています。
アコールのベビーブレスのセッションを体験された方々の記録です。許可を得て掲載しています。
私は、18歳で結婚、出産しました。そして、母となり、自分の女性性を否定し、憎悪を隠して愛情だけの、母性のみで生きていきたいとさえ思った。だから、あいこを、隠してきた憎悪で、食い殺すほどに支配してきました。 そんな私の隠された憎悪に傷つき、あいこは生後まもなくからショック症状を起すほどのアトピーになりました。
それがきっかけで、自然食を始め、やがて林先生と繋がったのです。 私は、何故か自然分娩や母乳、布おしめににこだわり、「絶対母乳育児」で育てたいと心に決めていました。でも、長女のあいこが5ヶ月の時、ヘルペスで2度の入院、そのせいで私も乳腺炎になり、同じ病院に入院、18歳の無知な私は、やむなく母 乳で育てることを断念しました。
でも、いま思うと、母乳をやりたくなかったのです。現に、乳首を加えさせると、 ドーンと谷底に落とされるカンジ、動悸をうち、母なら誰でも思うはずの幸せな気持ちなんてなれなかったのです。そんな気持ちと正反対なほどに、湧き出すぎる母乳。今から思うと、何故そうなってしまうのか、分からないことがつらかった。 8年後に次女のはなこが産まれ、長女のあいこにしてやれなかったことを全てやってあげたいと、はなこを通して自分の欠陥を取り戻そうとしてしまった。だから「自然育児友の会」という会まで立ち上げて、今 は、会員80名ほどになってます。
はなこを出産する時、最後の一息という所で、助産婦さんに手を入れられ、引っ張り出されるカンジが納得いかなかった。そのズルっとした感覚が何故か心に残り、この出産ではそこだけが気に掛かる所だった。今思うと、自分の意思どおりでないその行為は、自分の育てられ方(産まれ方・・・促進剤と無痛分娩剤を使った)とだぶ り、その傷に響いたのだと思う。
長男太郎を妊娠したと分った時、どうしてもそれを拭い取りたくて、「自分の手の中で取上げたい」と強く思いました。分娩台や布団の上ではできそうにない、その行為をする為に、水中出産を選び、友達の助産婦にそばに居てもらい、お風呂の中で自分で取り上げました。それは、今までの人生で経験のない達成感でしたが、精も魂もつき、2度とできない、そう思いました。
こうやって書いてみると、私の人生は取り戻すためにあるのか、そんなに自分が許せないのか。これが真に愛されず育った子、私の生き方なのです。
子どもに甘えられることが苦手なのです。長女、あいこには「スキンシップ」をと思い産まれた時からベタベタよくしてました。
今思うと、自分がされてないから反動でです。 最近、長女のあいこが言いました。「お母さんの抱っこは苦しかった。痛かった。」と・・「でも、あいこはおやつよりもお母さんの抱っこが大好きって言ってたよ。」というと「自分がして欲しいときはいいけど後は嫌だった」と言いました。それを聞いた時ハッとしました。やっぱり私は自分の淋しさでしがみついていた。
現に私は長女、あいこが産まれるまで、淋しさのあまり、布団の中でよく泣いていました。でも、産まれてからは、淋しさで泣く事がなくなったのです。何があっても、あの淋しさよりはましだと思うほどにしがみつきました。
あいこは知っていたのです。その手を振り払うとお母さんが淋しがることを・・がまんして受け入れていないと、捨てられる事を・・結婚して子どもを産んでもさみしいお母さんだと、次は又、淋しさを埋めるために、母は違うものを探すかもしれないと、必死でしがみついてたのです。だから、あいこには「いつか捨てられる」ってカンジがいつもあります。
そして私にも捨てたい自分があります。腹が立った時、すぐ切り捨てたくなってま した。「出ていけ。」が、私の怒りのお決まりの文句でした。それは今でも時々言っ てしまいます。
でも、今は自分探しが進んだことで、その頃に比べると、随分マシになり、腹が たっても、たちかたが違います。憎しむような怒りは無くなっています。
次女のはなこは3歳頃まで、あまり泣かず、べたべたせず、手のかからない育てや すい子でした。胎教も、出産も、食事も良いので、やっぱりしっかりと気をつけて手 をかければ、手の掛からない育てやすい子になるんだなあと思っていました。
次女はなこは3歳でおっぱいをやめてからぐずぐずベタベタします。自分を取り戻 すかのように、現在に至るまでグズグズベタベタたするのです。まだ6歳なので、甘 えて当たり前なのです。
でも、私にとって、そのベタベタは本音はうっとおしいのです。私は駄々っ子をさ せて貰えてないので、ぐずぐず言われると、本心は嫌気がさしてます。でも、それが 必要だと理解はしてるので、「頑張って」受け止めてる、そんな感じがあります。
でも、どこまでいっても「愛していた」と言い張る親よりまだましと思います。私 は子供 の頃から「本当の事が知りたい。本物が欲しい。」とずっと思ってきまし た。嘘や偽者を見破って傷ついてきたからだと思います。 私も本当の愛情を与えられないのだから、子ども達も見破るはずです。私はせめて自 分に、子どもに、正直でありたい。それを自分が観て行くために、自分探しをしてい るのです。
私は淋しさを埋める為に若くして、子どもを産みました。旦那も若く、あいこにあ まり関心がなく、自分が一番という感じなので、益々私は、あいこしか眼中に入らな くなりました。
私は母親のような生き方はしないと心に決め、あいこを育て始めました。子どもの 気持ちが分かるような振りをしました。その頃は振りとは到底思わず、自分が正しいと突っ走りました。服も自分の趣味を押し付け、キャラクター物なんか絶対着せたくなかった。 アトピーになっても、食物に反応する極めて珍しいショック症状を伴うものだったので、私が気を付けて食事を管理すれば表面上は分らなくなるほどの状態にまで綺麗になり、そこでより一層「このやり方が正しい」と自信をもち、突き進みました。私は知らないうちに親と同じような「押し付け」をしていたのです。 あいこは、小学 生になり、自分の机を持つようになり、その辺りがいつも散らかっていました。
次女はなこが産まれてからは、私は、それを責めるばかりで、手伝って片付ける事などしませんでした。見るに見かねて、手伝う時も、私が見て、美しいと思うような 片付けの仕方を押し付けました。子どもの使い勝手など、汲む事もせずです。
大抵の事は「自分の事は自分でする事」と突き放し、助けを求めてきても、あいこ の気持ちが満足するような接し方などしてませんでした。 助けて欲しい時に突き放す、冷たい母親です。今から思うと、自分の母親がしてき た事と同じなのです。
あいこは2歳になる頃から喘息が出始めました。私は自分の勉強の為にとアトピーの 会の会長を受けました。21歳の時です。5年間続けました。今から思うと、自分の名誉の為が大きかったのではと思います。アトピーを食事や体質、環境のせいにする事で、治療効果が上がったので、子どもの精神状態が大事だと気がつくまでには、時間が掛かりました。
あいこが2歳の頃、ふすまを破った事に腹が立ち、ひどく叱りました。その数分後に蕁麻疹が出始めました。その時初めて、精神状態でこんな事が起こるという事を認識しました。でもその事実を認めるだけで、どうしたらいいのかが分かりませんでした。
それからは、アトピーはライフスタイルの変換と心が重要だという事は掲げていま したが、なんの確信もないまま月日が過ぎました。
あいこが5歳の時の事です。旦那の実家に遊びに行っている時、祖母から貰った風船を膨らまして遊んでいました。そのゴムに反応し、唇が腫れ上がり、蕁麻疹が出て大変なことになりました。祖母は慌てて「私がこんな物もたせたから」と自分を責めた感じで部屋を出て行きました。私もそんな義母の後姿が可愛そうで脳裏に焼き付い ていました。あいこはその日みんなと出かける事になっていたので、行きたい一心で その苦痛をガマンしてました。
ある日夕食の時私に言いました。「あの時蕁麻疹がでたろう。おばあちゃんが可愛そうだった。」と・・。私は半年も前の事をそんな風に言うあいこに対して、喜びま した。「お母さんもあの時のお婆ちゃんの後ろ姿は忘れられん。あいこがそんな事に 気づいていたなんて、お母さんは嬉しい。アトピーに生まれたからこその優しさがあ るんだね。」そのように答えました。
今から思うと本当に分らず親です。綺麗な優しいあいこしか許す事ができませんで した。自分の苦しみを言えない、出せない、我が子に対して、おかしさも感じず、私と同じ様に感じたことを話すあいこを誇らしいとすら思いました。 アトピーをどこまでも外側のせいにし、前向きに考え、アトピーのお陰で「人の心 の分かる優しい子」に育ったと思い込んでいたのです。
自分のせいだと思いたくなかった。それを認めると今迄の自分の人生が崩れ落ちる、そんな恐怖があったのかもしれません。
あいこは自分を言葉で表現できる頃になると、もうすでに、「親の思う良い子」をやっていました。2、3歳頃も食事制限がきつく、皆と同じ物が食べれないのに「食べたい」と駄々をこねた事もありません。私はその頃よく人に「あいこちゃんはなんで欲しがらないの?普通駄々をこねるでしょう。」と言 われてました。でも私は駄々こねしないあいこに対して、「産まれた時からそうだから、本人が食べられないのをちゃんと理解してる」と応え、そう思い込んでいました。
ショックを起すので、駄々こねされても、「食べさせれないから、無理な物は無理」と私も思ってたので、あいこは自分の感情を無意識に押し殺してました。今思うと、無理な事でも、存分に駄々こねさせてあげたかった。「つらいね。ごめんね。でも食べる事は無理なんよ。」と言ってあげたかった。そんな事すら気づかない親ですから、ぶつけれるはずはありません。今思うとあの頃、駄々こねされてたら、そんな自分の感情をぶつけるあいこなら、私は虐待して殺してたかもしれないというほど、子どもの心と向き合う事ができていませんでした。あいこも私のその隠された部分が恐怖で自分を無意識に押さえてきたのだと思います。
思い出すと私も駄々こねをした覚えもありません。5歳の頃、年子の妹がひっくり返って泣き叫ぶことに「この子はなんでこんな事するのだろう」と不思議に思った自分の気持ちを今でも覚えています。その頃にはもう、甘えは許されない自分だったのです。 私は人の事を羨ましいとか嫉妬するという感情も、もってはいけないものとして、自分で感じないようにして生きました。汚い感情を持つ私は許されなかったのです。それが親の望みでした。そういう自分の感情を自分で許せない私は、女々しさを感じる人は特に嫌いでした。
だから私は深く人と関わったことがありませんでした。付き合った人ともそんな自分になりそうものなら、そんな自分に耐え切れず、逃げていました。そんな私がそんな自分に気づかぬまま子どもを産んでしまったので、私がされたように、私の子どもに対して、人間の基本的に出さなければいけない、持っててもいい感情まで殺してきました。
知らず知らずにそれは生活の全てにおいて、子供に対して支配し、束縛という形で出ていました。大きくなるにつれ、お手伝いという名の強制労働。家にあるおやつも自由に食べさせませんでした。その日の体調を考え、私が管理をしていました。そのままの自分を許されず育った私は、子どもを許す事ができなかった。「まあいいか あ」なんて到底思えなかった。
あいこは小学生までは勉強が出来る子でした。中学に入って、テストに順位がつくようになり、変化が現れ始めました。中一の終るころより、テスト週間やテスト期間に体調を崩すようになりました。今ではほとんど出ない喘息という形や、風邪からの熱や、そうでない微熱などです。どこかで必ず欠席をしなくてはならない状況になるのです。
その頃はよく勉強の仕方が分らないから、やる気はあるけどできないと言ってました。中一になりテスト週間位は勉強しなくてはと思ったらしく、その期間はやる気まんまんで始まり、いざ後残りわずかでテストという時になると気持ちが続かなくなり自分自身に嫌気が差してました。私達はすぐにテストの「評価」が気になり、自分を
発揮できない子どもの状態に気づき、どうにかしてあげたいと思ってました。でもあ いこが、自分の状態がおかしくなっていることを受け入れるまで時間が掛かりました。何度もこの状態が続き、まず、あいこ自身が自分のおかしな状態に気づく事が大切だと思いました。
テストの順位について実際に夫婦共々あまり関心がありませんでしたから、あいこ に勉強して成績をあげるように言った事はありません。・・・があいこはテストが恐 いのです。親に言われるからではなく、成績の悪い自分が許せない、そんな感じで す。許されず育ったあいこは「自分で自分を評価する」そんな風に育ちました。
アコールでカウンセリングを受け初めて5年間で少しずつですが私は、自分が分るようになり、この子が自分を許せないのは、私がこの子を丸ごと許せてなかったし、私自身が自分を許さず生きてきたという事が分り始めてたので、なんとかアトピーを治したのと同じように私のつけた傷は親の責任として、この子が生きやすくなる程度に してやりたいと思いました。
それには私自身が自分の傷を知る事が必要と思い、あいこが中1の夏から本気を出し始めました。私がカウンセリングとブレスを続けるうちに子どもは強く私に反抗できるようになり、今までに何度も本気バトルをしました。私は子どもに心の底から詫びれるようになりました。
そして、中2の3学期の実力テストは体調を崩さず挑むことができました。今までは自分が強く勉強をしたいと思っても手に付かない、集中しきれない辛さを感じてました。でもこのテストは自分の思っただけ、勉強が手に付く、そんな変化を感じてました。
・・がやはり予想通り症状は行きつ戻りつと言われますが、その通りで、学期末は又テストの前日に微熱を出し、欠席しました。私は腹が立ちました。休ませたものの、納得がいってないのです。正直言って「また病気がでたか・・」と言い放つほど
苛立ちました。その夜はとうとう爆発しました。熱のある子どもに対して責めまくりました。テスト恐怖症の子どもが本当は許せなかったのです。そして子どもをそんな風にしてしまった自分が許せなかったのです。
言い合いになり、「好きで産まれたんじゃない。自分達の快楽で産みやがって。私の人生を終わりにさせたのはおめーじゃ。」とあいこ。「まだ終ってないは。諦めるな」と私。「こんなになるならさっさと中絶すれば良かった。こんなにじわじわと殺されるのはごめんじゃ。」とあいこ。「まだ死んでないわ。生きとるじゃないか」 と私。「私は言葉で心を殺されたようなものじゃ。あんたは3人共殺してしまう わ。」とあいこ。・・・その通りです。
その言葉に私は反論しませんでした。でもこの子の怒り、私に対しての閉じ込められた憎悪こそ病気の根源だと分っていましたから、とにかくそのエネルギーを出させてやりたいと思い、私は子どもの身体を押さえ、抵抗させ、暴れさせました。ベビーブレスを9歳の頃から受けていたあいこは、反抗期に入り、強くベビーブレスを拒否しています。私が押さえつけた時、ブレスをさされると直感的に気づき、「キモイんじゃあーっ」と叫びました。
自分の憎悪を出すのが恐いんだと思いました。暴れながら、言いたい事を言い放つその場面は、傍から見るとキチガイざたです。それでも続けました。きょうだい達も恐がりました。でもそこは、旦那が「姉ちゃんもブレスして吐き出さんといけんのよ。はなこも太郎も 駄々こねして暴れるじゃろ。それと一緒だから、大丈夫だよ。」とフォ ローしてくれました。
私もあいこも力つき、放心状態でした。私は、子どもに伝えた傷は分るけど、それ でも、言われた言葉に心が粉砕してしまいました。粉々のその心を拾って集めてどう にかしたいほどつらく悲しかった。
でもまさに私は子どもの心を粉砕させてきていた。その事に理屈ではなく、心で、遅ればせながら気づいたのです。私は何度も自分自身の内面が粉砕しなければ本当の自分が出てこないことも分かり、言ってくれた事に感謝も出てきました。そして、それを私にぶつける事のできるあいこに嬉しさも感じました。テスト当日の朝、どうするのか様子を見ていました。布団から出て来ません。
「どうするん?微熱位なら行きなさいよ」と私。 「おかんが昨日私がしんどいのにあんな事させるから、行かん」と言います。私は ここは本気出すぞと思い、 「ちょっとこっちに来い、 話あいじゃ。」と呼びました。
「たった3時間なら今の熱なら行けるはずだ。送り迎えするから行きなさい。」「行かない」 「じゃあ明日はどうするん?」 「明日は熱があっても行く」 「じゃあ今日も行けるじゃろう。今日休んだらテストの順位がでなくなるから行かな いというわけじゃな。」 「でるよ。今日の教科が0点として」 「あんたはそろそろ自分の病気を認めなくてはいけん。お母さんはこの日を待ってた。
何度もこの状態が続かないとあんたは認めんかったから、今言うけど、テスト前に休めば、結果が悪くても勉強できてないからと自分に言い訳できる。テスト中休めば0点として結果がでるから、それも自分の実力でないと言い訳できる。あんたはそれで本当に満足か。幸せなのか。
本当は気持ち悪いはずじゃ。自分が一番苦しいはずじゃ。そんな中でもあんたの病気は良くなっている。勉強が手に付くようになってるじゃないか。自分が思っただけできるようになってるじゃないか。あんた自身が病気を認めなくてはこれから受験どころではないよ。ここで本気で自分と向き合わないと 将来の夢も叶わない。夢のために高校に行きたいのなら受験までに今なら間に合うよ。
ここは逃げるな。絶対あんたの自信になるはずじゃ。テストの結果ではなく、受け る事に意味がある。どんな結果でもいいじゃないか。」と・・。 その時初めて素直な顔でぽろぽろと涙をながし、認めると言いました。
そして時計をちらっと見始めたので、 「行こう、送っちゃるから。今すぐ用意すれば遅刻でもテストには間に合うから」 と誘いました。そして無事3日間のテスト期間を乗り越えました。 最終日は喘息まで出てましたが、本人は本当に爽快で自信に満ちてました。自分か ら逃げなかった自信です。
その3日間は私は子どもの傷と向き合う事で自分探しをする事ができました。
私は子どもの頃から自信のない子でした。走るのが速く、トップとアンカーが決まった時も、負ける自分が恐くて、仮病を使い、アンカーを辞退しました。器械体操の技の練習も恐くてできなくなりました。そんな事が数え切れません。
気が付くと「負ける自分が許 せない」ように育ってました。
そして思春期に入り、もともと勉強が苦手で、勉強が手に付くような環境で育たなかった私は、あいこのテスト恐怖症が顔を出し始めた頃と同じ、中1の辺りからツッパリはじめました。
テストの悪い点を取る自分が許せなくて白紙で出したほうが、自分にとって、かっこよかったんです。そのうち中学をよく休むようになりました。
家庭もボロボロで両親と暮らしてなかったので遊びまわりました。負ける事ができない私は、カッコの悪い自分を許せないから「ツッパリ」でそれをカモフラージュしました。
なんでも人と違わなければ納得しない私はその頃、自分はヤンキーではないと思ってました。
まじめでもない、その辺のヤンキーとも違う、自分だけがもつ特別な存在その頃の刺青入りの私の友達と先日再会し、「ナナは不思議な人だった。まじめでもないし、私たちと組むわけでもなく、でもかなり恐かった。なんせこの私をパシリにするんじゃからと」
私は自分に自信のないところから逃げるためにツッパリました。そうやってでも自 分を認める場所を作って生きてきました。そうしないと生きられないほど、自分を許せなかった。そのままの自分を許せなかったのです。その傷と同じものを我が子の中に見ました。私は自分の傷から目をそらして、隠して生きてきましたが、あいこはぎ りぎりの所で、自分から逃げずに認める事ができました。
子どもの傷から自分の人生を改めて振り返り、何故そうして生きて来たかを知る事により、子どもに付けてきた傷は私の傷そのものだったという事が改めて理解できました。
これが林先生たちのいう「親の傷に傷つく」ということなのです。そしてそれは親 子で現象が違っても同じ時期に起こってくるという感じがします。
あいこのテスト恐怖症も、私のツッパリも、起きてきたのが共に中一の終わりなのですから。思春期の反抗期に親が気づけて本気で向き合えば、かなり胎児期、幼児期の傷が緩和されるように思います。
私の場合は親が目の前にいないし、そんな揺れ動くところも見てはもらえなかった。もっとも今の私の親をみていると、たとえ一緒に暮らしててもそんな私には気づいてもくれなかっただろうこともよく分りますが・・ 私は隠したり、逃げたりしている事を自分自身で分らなかった人生が一番辛かった。
こうやって分って生きていく事が子ども達や家族と本当に繋がれることと分かりま した。そして次の世代にその苦しみをなるべく残さない事が私の生きる意味だと感じ るのです。
今回の事で自分が何故つっぱって生きてきたのかをより認識する事で、子どもの苦しみと悲しみが分りました。
私の事もたくさん子どもに聞いて貰いました。全て話しました。同じ気持ちをもって生きてきていた自分に気づき、子どもと真に繋がれるのだと思いました。テストの終った日にその事を語り合う事ができて、子どもの晴れ晴れとした表情を見ていると これ以上の幸せはないと感じました。
子どもの気持ちを分かりたいと思うのなら、まず自分のルーツを探し、自分が何故 そうやって生きてきたかを知り、本当の自分が分かる事なのではと痛感しています。 生きる事は苦です。でもその根源を知ると真の喜びに変わっていくのだと思います。
今からちょうど2年前、私が31歳になったその日に起こった出来事です。 母の再婚相手の義父が、首吊り自殺でこの世を去りました。真夜中の出来事でした。
自営の場所がその現場となりました。検死の後、私の旦那と親戚が遺体を抱いて車でそのまま自宅へ連れ帰りました。
普通は病院で遺体の身体を拭いたり、穴という穴に綿を詰めたりして、清めるのですが、家で私達がそれを行いました。
私は義父の成育歴を思うとどんなに苦しい悲しい人生だったかが、手にとる様に分かり、その思いと共にありたいと思ったのを覚えています。
遺体の身体を拭き、服を着替えさせ、首の部分にバンダナを巻きました。首と鎖骨の広範囲にわたり、ロープのあととうっ血した肌の色が広がっていました。私がプレ ゼントしたバンダナを巻きながら義父の死に至る感情をも共有したいと思いました。
でも、私は義父の事は本当は好きではありませんでした。私が結婚して長女を出産した辺りから、少しずつ私と母の関係も復活しつつあり、行き来するようになる中で、私の子どもを可愛がってくれるという事もあり、義父と母と歳の離れた実の弟のいる家庭へ出入りするようになりました。私も子どもを産むと帰る家が欲しいと強く思うようになり、私は住んだ事ないので、実家という感覚はありませんが、母に甘える為に私は義父との関係を繕って出入りしてました。
薄々自分の本当の気持ちに気づいてましたが、その頃の私はそれをはっきりと自分で認識することが恐く、見ないフリをしてました。何故恐いかというと、表面はいい顔していて、中は憎悪という自分を認めるのが恐かったのです。
嘘っぱちの母との関係でも義父の顔色を見ながら、繋ぎとめておきたかった。義父に対する憎悪を自分の意識に上らせる事が都合が悪かったのです。そんな自分を薄々気づいていたのに、いざ死ぬと、共にありたいとまで思ってしまうのです。
私は義父が死んで一週間後、義父の首と鎖骨の様子とそっくりな湿疹を全く同じ場所へ出しました。痒みが酷く、醜いので外出はバンダナやストールで隠してました。
その頃にお尻にも酷い湿疹が出始めました。春が来て夏が来てより一層痒みがま し、お尻は特にボロボロでした。弟も中学頃よりお尻に同じ症状が出ています。
首の辺りの湿疹があまりに義父の死に様にそっくりなので、私は霊媒体質かと思う程でした。家族達も気持ち悪がりました。私は「共にありたい」と思ったら本当に共にある現象が起こったので、何かあるんだろうという事は分るのですが、何故そうなったかが分らない事が気持ち悪く、知りたいと強く思いました。痒みに苦しめられ るので、理由がはっきりしないと、解決しないと思いました。
私は何故そこまで「共にありたい」と強く思うのか、それはどこから来る思いなのかを知る為に、初めて林先生の事務所を訪れました。ベビーブレスもカウンセリングもいつもこちらにきてしてもらっていたからです。 お湯の中に全身を浮かべる、フローティングセラピーはその時初めて経験しま した。
カウンセリングが始まって、「何故、あなたから母親を奪った人と共にありたいとまで思うのですか?共にありたいと思う気持ちの反対を考えた事がありますか?」と聞かれました。その時は前記したような義父への感情を自分の中で表面化させていませんでしたから、頭が真っ白になり、「分らない」と答えました。もう一度考えよう とすると頭が痛くなり、やはり「分らない」と答えました。
そのままベビーブレスに入りました。その時の体験は省きますが、終ってみて話していく と「自分の中の殺意(憎悪)を隠す為に、カモフラージュする為に痒みが起こり掻き毟っていた」という事が分りました。義父が亡くなることにより、薄々気づいてた恨みは瞬時に私の意識下へとしまいこまれてしまっていたのです。
それを私が意識上で認識し、吐き出す事により、東京から帰って1週間で首の湿疹がきれいに消えました。人間は受け入れにくい感情は自分が気づく前に瞬時にしてリスクを背負ったまま消して、しまい込んで生きて行くのだと思いました。無意識で瞬時に行われるそれこそ、心の病や病気として身体に現れ、私達を苦しませ、悩ませ、生きにくくさせているのです。私は、出しては生きて行けなかった憎悪をベビーブレスで出す事で、症状が消えていく凄さを身体で体感しました。病気は根っこが分れば消えていく物だと知りました。
でもお尻の湿疹は結局、2年近く患いました。弟も10年以上患っているので、ここの 部分の根っこは深いのだという事は、分りましたがそれ以上は分りませんでした。
この2ヶ月前、縁あって皮膚科の先生にお尻を診て貰いました。その時に言われた事は「これはあなた自身が掻いて作っている病気です。」と。「それは自傷行為という事ですか?」「そうです。よく分ってらっしゃる。」私はお尻を掻いている時が恍惚に気持ちいいから、それを止めるというのは拷問のようだと言いました。でもその後来る痛みも拷問なのです。と・・「そうでしょう。掻かない事が拷問と感じるほど掻く事が気持ちいいでしょう。そして痛みで我に返る。だからこれはあなた自身がつくり上げている病気です。」まず掻かないようにする為に強いステロイドが出されました。そして抗鬱剤も出すというのです。私はそれを飲むのは抵抗があるからと断りました。病院では「掻かなくてはならない私の傷」の治療までは出来ませんから、出た症状への対処療法になります。
この「自傷行為」もはっきりと言葉ではないのですが、薄々気づいてました。お尻を掻いている時はそれに没頭できて、気持いいので、何よりもそれを優先させていました。その事実は認識していて、何かあるんじゃないかとは思ってましたが、それより深めず「アトピー」と自分で思うようにしてました。子どももアトピーだし、この苦しみを共有する意味があるのではないかと思うようにしてました。でも先生にはっきりと病気を指摘され、思い当たるだけにとてもすっきりしました。
でも、抗鬱剤だけは認めたくありませんでした。そこまで病気なのかと思うとそんな事許せないし、薬に依存するかもしれない自分が怖かったからです。
そして林先生にメールでカウンセリングしてもらい、薬の事も相談しました。薬に対しての見解はこのようでした。「薬も役に立つでしょう。薬で治るとかブレスで治るとか決めないで体のことですから丁寧に扱って上げたらどうでしょうか。皮膚が治っても自傷行為はなくならないでしょう。次は皮膚以外の何かに移るものです。精神的なものがベースにはあります。でもだいぶ分かってきたから皮膚を直してかかないようにしていったら少しは自傷行為も少なくなるかもしれませんね。」
私はステロイドだけ言われた通りに塗りはじめました。2日ほど、痒み止めを飲みましたが、副作用の眠気で昼間、子育てに支障がでるのですぐやめました。塗り薬のみで、1ヵ月後ほぼ完治の状態になりました。薬を塗り始める時期と自分の事が分り始めた時がタイミング的に合ったのだとおも いました。
何故掻き毟らずには生きて行けなかったのか・・・それが分かったのです。
義父が亡くなったと聞き駆けつけたとき、呆然とたたずむ母に私はとっさに「お母さんのせいじゃないよ。お母さんは良くやった。」と抱きしめました。
義父が亡くなる3時間前まで、私は母の苦悩を電話で聞いていたという事もあります。母は義父の2年間に渡る不倫に悩んでいました。そして、商売で返せそうに無い借金があったという事もあります。その日、母はお金の工面に走り回っていました。そういう事を全部私は聞いていました。
でもその事実とは裏腹に私の心の中に「あんたのせいで死んだんだ。夫婦が本当に分り合い繋がっていればこんな事にまでならなかった。私達を捨ててまで離婚し、再婚し、仮面夫婦をしてきたから、こんな事になった。やっぱり、どう考えてもあんたのような生き方はしたくない。そんな悲惨な人生をも気づかず生きて行くことは真っ平ごめんだ。このバカ女。」そんな気持ちがあったのです。
でもやはりその時も瞬時にその気持ちは隠されました。こんな状況の中でこれ以上恨みを意識上に登らせて生きて生きて行くことは困難、と私の無意識が判断したのです。
そして、その片方の気持ち、「このバカ女」という気持ちを浮上させられないま まに時が過ぎて行きました。私の母親に対する憎悪がこの出来事をきっかけに許容範 囲を越し、溢れ出たものがお尻の湿疹として出たのではと思います。
私の母親に対する憎悪は、母親の持つ憎悪そのものを胎児期から幼児期に取り込ん だものなので、その根源をまず吐き出す事をベビーブレスでしました。そして日々の生活の 中で気づくとこがたくさんあり、それを理解し消化していく事で症状がゆっくりと無くなっていったのです。
私は母親としての自分を保つために自分を傷つけ慰めていた。それが日々の生活を丁寧にメールでカウンセリングしてもらう事により、分った事です。
そのカウンセリングの一部を抜粋しました。 (私)
今思ったのですが、掻いてる私のほうがまだいいお母さんだった気がする。掻かない今のほうが自分の感情がコントロールできなくて子どもたちにダイレクトにぶつけている。自傷行為をしてないと母親としての自分を保っていけないんだ。自分を傷つけてまで「お母さん」であろうとする自分。母として生きれないのなら自分はなんの価値もない人間なのだと感じる。今日はこれ以上自分に向かうのは困難そうなのでやめます。(先生)自分を傷つけてまでいいお母さんであろうとしたのですね。それは自分を傷つけなければできないことでもあったのですね。母親は子供を捨てて何の価値もないからその反対を生きないと許せなかったのでしょう。自分を傷つけることは母親を憎むことであり自分を憎む(殺す)ことでしたね。そうしないと生きてはいけなかったのですね。
自分が分らないと私の場合は如実に身体に反応します。それが一番つらい事です。でもその根源を知ろうとするとき、自分の傷に気づき、子どもに付けた傷に気づき、親子関係や夫婦関係がより深みをまし、本音で繋がれていきます。
病気の症状や人間関係において目に見えて起こる事はどんどん変化しますが、根底にあるものは、簡単には変わらないと思います。しかし、日々起きてくることや心の動きを丁寧に観て行くことで、少しずつですが、根底にある自分の傷が変わっていっているように思います。
・・・・さならる気づき・・・・
今回のブレスで私は3回ほど入る事が出来ました。ベビーブレスではうまく入れる(簡単に言えば心が開く)時と入れない時があります。その時のブレス直後の感想です。
小学一年生の頃の自分「大人の始まり」と母に言われた事に本当は抵抗していた自分が分った。大人の始まりと言われて、ますます甘えられなくなる自分。
次女はなこと同じ頃の自分が、自分なのか、はなこなのか、分らないほどの駄々こね。6歳の 頃そうやっ ていたかった自分。父親の狂気の目。目を見開いたままの狂った父のような自分。そんな父親を殴り殺す。母も冷たく、愛されない。憎まれつづけた自分の恨みで母を呪い殺す。本当は愛されたかった、子どもの頃そんな母親にも愛されたかった自分が分った。愛してくれない母親を殺す。そして憎しまれた自分は殺されていく。
物凄い恐怖。初めて経験する恐怖。死にたくない。恐い。どうにか、どうにか、助けて。殺される感覚。声が出ない。殺された感覚では物足りないから、再度呼吸。喉を押して貰って、自分から死んで行った。初めての恐怖。ただ死んだ。何も無かった。シェイクの時「生きていたい」という感情。瞑想後、吐き気。「自分に感謝して」という言葉で、感謝が湧いてきた瞬間に物凄い吐き気が襲う。
長女の妊娠中、後期で1度、突然、猛烈な全身の寒気と共に過呼吸を起しました。
その時、自分がパニックになり、このまま死んでしまうと思うほどの恐怖を感じました。車で窓を締め切って乗ると動悸がしていました。その時はパニック症候群という言葉も知らず、病院では自律神経失調症と診断されました。
次女の妊娠後期も一度同じ症状が起こりました。その時は呼吸法を知ってましたの で、なんとか自分で落ち着くイメージをしてパニックまでにはなりませんでした。私 は妊娠中だけそういう症状がでます。
私は子どもを絶対母乳で育てたいと思っていました。長女を産んで、幸せな母乳育児ができると思っていたのですが、乳首をくわえさせても、とても幸せな気持などなれませんでした。
反対に谷底に突き落とされるような感じと、ひどい時は動悸まで打ちます。母乳をあげる事が苦痛でたまりませんでした。私は母に電話で相談しました。
その時に聞いた内容をまとめて書きます。 母は自営業のため、昼間、赤ん坊のわたしを姑、私の祖母に預けて働いていました。昼間はミルクなのですが、私は嫌いで飲まなくて困ったそうです。母は昼間母乳をあげれない事もあり、私が生後3ヶ月の頃、乳腺炎になり、手術をしました。夜は いつもパンパンに張ったおっぱいを私に飲ませていました。
ある夜もそうしていると、姑が言いました。「昼間私が面倒見るとき、ミルクを飲まなくて困っている。母乳のほうが美味しいからだと思うから、やめてくれないか」 母はそれを聞き入れ、当分の間、夜になると私を横に置き、張って痛いおっぱいを泣く泣く絞っていたそうです。
「飲ませたくても、飲ませられない辛さで泣きながら絞っていた。あんたはそれを 覚えていたのかもしれない」 それは私が生後6ヶ月の頃の事です。 私はそれを聞いても、感覚的には分るのですが、納得はできませんでした。
何故、母乳育児にこだわるのか。母乳をあげる時に苦痛なのか。妊娠中に過呼吸になるのか。それが知りたかった。この事が切っ掛けで、後にベビーブレスのと出あいました。
私は今回のカウンセリングとブレスの体験で知りたい事が分りました。 私が祖母になつく事で、母は姑、祖母に私を取られたと思っていたそうです。 私が1歳4ヶ月で妹が産まれ、母は「ナナ(本人)はお婆ちゃんの子。ケイ(妹)は 私の子。」と思い育てたと言います。
「ナナはミルクを飲まなくて困った。」と母も祖母も私が小さい頃からよく言ってました。私は、母乳を貰いたい一心でミルクを拒否しました。母乳を求める事は祖母ではなく母を求める事でした。
母はそこに気づきませんでした。 ただ、「ミルク嫌い」としてかたずけたので、母乳をやめるように言われて、それ に従いました。でも、母は乳腺炎を繰り返している事から、私に母乳をあげるのは苦痛でもあったはずです。
母も私と同じく母乳をあげたくても、あげられない傷があったようです。妹が産ま れ、私は母に「祖母の子」として位置付けられました。
それが私にとって切り捨てられたような寂しさでした。私は切り捨てられた寂しさで、生きる糧のミルクをくれる祖母にすがりつきました。私は切り捨てられた寂しさで祖母にすがりつくしかなかったのに、そうしなければ生きて行けなかった。
なのに、母はそれが分らず、「ナナはお婆ちゃんの事が私よりも好きなんだ」と思い、「私から去った子」として私を憎しみました。何かあれば「あんたはお婆ちゃん子 だったから・・」と言いました。
私も物心つく頃にはそう思い込んでいました。切り捨てられた傷は悲しすぎて、背負っては生きられないので、その傷は意識下にしまい込まれ、「私が母よりも祖母を 選んだ」という意識で生きていました。
でもその奥を言えば、母乳を貰えなくなった、生後6ヶ月前後には、母の気持 (姑に取られた子、自分より姑を選んだ子)がそのまま自分のものとして根付いたのです。 それを思うと私は母の子どもでいる為に、無意識に自分の思いを殺し、母の気持に 添って生きた、けな気な子どもです。
憎まれても、「母の子」としていたかった。それがブレスの体験の「そんな母にも愛されたかった」=「母の為なら死んでもいい。でも生きてしまったから、せめてあなたの子どもでいさせて」だったのです。
おっぱいが欲しいのに貰えなかったという反動で、絶対母乳で育てたいと思いました。私は自分の生きる糧、母乳をとられた傷があるので、自分の湧き出る母乳さえ我が子に取られるのが嫌だったのです。
たとえ、我が子でも自分の食べ物は渡さない。それが私の心の奥底に、傷ついたままの子どもとして残り、 蓋をされていたのです。 そして、私の意識(母乳で育てたい)と無意識(母乳をあげたくない)の葛藤が心 の奥底で起こり、それが私の身体に症状として現れていたのです。
私は先日、義妹と「嫉妬」について話あいました。私はその感覚が無かった事を思い出しました。私にはあいこを姑や周りの人に取られるという意識がありませんでした。その頃はただ、「姑はベッタリとするタイプではないから。」と思っていました。でも姑も口出しは普通並にしていたと思います。それもそこまで気になりませんでした。
自分は他の人と違い、子どもに執着しない人間なのだと思っていました。それが、 大間違いな認識だったと気づいたのです。実は取られる心配の無いくらい私はあいこを支配していたという事が分ったのです。
あいこは産まれてまもなくアトピーになりました。食物アレルギーで、合わない物を食べるとショック症状を起すタイプでした。それに最初に気づいたのは、あいこが生後5ヶ月の頃私が乳腺炎で入院している間に母乳をあげれないから、姑がはじめてミルクを与えた事で体中真っ赤でパンパンになり、唇は膨れあがり、器官も腫れあがり、呼吸も困難になるという事があったのです。
それからというもの、何にアレルギーがあるか調べ、徹底的に食べ物を制限し、生活全ての改善に全力を尽くしました。
症状が酷い時は、卵焼きを焼く時の煙を吸っただけで、蕁麻疹や呼吸困難になった時もあります。旦那も含めて、周りも、そんなあいこに何かあったら困るという恐怖で手出しはできませんでした。食べ物さえ私の許可がなければ与えられないという情況でした。
私とあいこの間には誰1人として入る事ができなかったのです。無意識に取られないようにしていたのです。
私は寂しい生い立ちだったので、寂しさを埋めるために子どもを産みました。過食 症の人は食べ物で寂しさを埋めると言われてますが、私は子どもを食べ物として 産 み育て、食べ物、あいこを丸呑みするかのように完全支配したのです。そして表面
上の寂しさから解放されました。
私はは自分の生後6ヶ月の頃、母乳を取られ、切り捨てられた傷から、「自分の食べ物、あいこは絶対渡さない」という無意識があったのです。それにあいこが身体を張ってアトピーとして応えてくれたのです。自分の食べ物を取られた私は、自分の作った食べ物を食べなければ生きていけない事を無意識に望んでいたのです。 まさにアトピーは私の無意識にあいこが身体を張って応えてくれた愛の証なのです。
あいこが私の傷をも理解し、自分を受け入れて貰えるように、自分を殺して生きて いたのです。 これが分ると、親が子どもを思うより、子どもが親を思う気持の方が強いように思 いますが、それも子どもが生きて行くための手段なのです。産まれ来る命はどこまでも強く逞しいものでした。
ベビー ブレスを始めてから薄々、感じ始めた事がありました。 あいこはアトピーで食べ物を自由に食べれないという事もあるが、自由に食べさせたくない自分がいる事を。薄々感じているそれこそ、真実でした。食べ物(母乳)を取られ、食べられなかったから、取られたくない私 は、食べ物を自由に食べさせたくないし、あげたくなかったのです。
子どもを産んで、母になっても、私の中の子どもは傷ついたままだったのです。
私の母乳を取られた恨み、母に切り捨てられた悲しみ、祖母になついた事で私に向かった母の憎悪、母自身がもつ憎悪、それら全ての傷の中で私は生きたのですから、その傷をあいこがそのまま引き受けた事になります。
でもそれをも理解し子どもは産まれてくるのです。私は今迄自分の傷がどこにあるのか分らず、結局母と同じような事が起こり、子どもには私と同じ傷をつけていたのです。分らない事が一番怖い事でした。
私があいこをアトピーにしました。でもそのルーツを探すと、私だけのせいでも母親のせいでもありません。本当は誰のせいでもないのです。 ただ、誰かがその世代間伝達に気づき、それを修正しなければ、これは代々毒の世代間伝達として、受け継がれるのです。これが、ベビーブレスをして5年(約10回)で気づいたアトピーの理由です。
母親の言う通り、「母乳をあげたかったのにあげられなかった」としたら、私はそんなに傷ついたとは思えません。何故母は乳腺炎になり、母乳をあげたくなかったのか。母方の祖父母を探ってみます。
私の母方の祖母は、8人きょうだいの長女で6歳の頃、養女に出された、「捨てられた子」です。祖母は捨てられた事で傷つき、その反動で「私は子どもを捨てたくない」と生きました。
母方の祖父は2歳の頃、家族でブラジルに移民として渡りました。5人きょうだいの末っ子です。祖父の父がブラジルで1年もしないうちに事故でなくなりました。
祖父の母は日本に帰り、女で一つで子ども達を育てました。その時代に1人で子どもを育てるのは今以上に大変な事でした。祖父の母は子ども達の食いぶちのため、父親役をして生きました。祖父の父が亡くなったのは祖父が2歳の頃なので、その頃にはすでに母に母性を感じる事は無かったです。
このように、母親の母性に触れず生きた祖父と祖母は、同じ傷をもつものどうしです。
そんな祖父に祖母がしがみついても、寂しさは満たされませんから、祖母は寂しさから、私と同じく、子ども、私の母を、自分の食べ物のように支配し、女性性を意識下に隠し、母性だけで生きました。他方、祖父の満たされない寂しさは、別に家庭を作る事で紛らわしたようです。
祖母の本物でない母性に母は反発し、母性を否定し、意識下に隠して生きました。
そして母乳は母性そのものですから、私が産まれ、母乳を上げる時に、意識下に隠された母性と意識上の「女として自由に生きたい」が心の中で葛藤として起きたのだろうと思います。
それが、乳腺炎という症状として現れたのです。そして姑に言われた事を理 由に、早い時期の断乳を決めたのです。
だから本当は母乳を上げたいけど、上げれなかったではなく、「あげたくなかった」のです。 私はその「本当は母乳を上げたくない」=「母性を上げない」という、母が認識してない嘘の部分、隠された憎悪に傷つきました。
ブレスでは母が、女性として生きて行く事で、父や再婚する事で男ばかり見て、私 達に意識が無く、それを幼い私が分かっていて、悲しんでいるという体験をしまし た。 現に母は、私が子どもの頃から「友達のような親子になりたい」と言っていまし た。それなのに同等に物を言うと「親に向かって言う言葉ではない」などと支離滅裂 な事をよく言っていました。その言葉は「子は親に従え」という祖母の生き方から出 てきた言葉です。私は自分の事が分かってない母に反発しました。
そして母の女性性を強調する生き方に嫌悪感をもち、私は、その反動で、母性だけで生きてしまったのです。母性だけで生きて子ども達を支配する、祖母とまるで同じです。捨てられた子どうし、同じ傷から子どもを支配していました。
私は、母の反動から、女性性を否定しましたが、本来は女性なので、女性としても生きたかったと思います。だからこそ、妊娠後期の妊婦は母性のかたまりなので、私の中の隠された女性性と葛藤を起し、妊娠中の過去吸として現れたのだと思います。
身体に出る症状は、私の意識と無意識が、引き裂かれた状態に耐え切れず、沸き起こってくる自分に対しての一つのメッセージなのです。そのメッセージに気づいて「何故そうなるのか」をキーワードにして生きていきたい。
こうやって書くと表面の意識は1世代飛ばして世代間伝達されているのが分かりま す。私が気おつけないと、私の子どものどちらかが、女性性を強調して生き、子どもを捨ててしまうのではないかと思う位です。でも私の母、祖母、その母もこの事に気 づかず、生きたと思うので、これから、私の子ども達に起きてくる事は、私より少しは、ましになるかもしれません。
これを書き終えて、なんか一つの区切りがついた感じです。分からなかった事が一度に分かってしまった感じです。5年前の私では書けませんでした。この文章を書くには先生のカウンセリングなしでは書けませんでした。本当に手取り足取り、手のかか る娘ですみません。そしてこんな宝物をもてた事を感謝します。ありがとうございました。
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