ベビーブレス体験集(本の内容)
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
アコール発行の過去の体験談をまとめた著書「自分でしか治せない心の傷」
湯川久代(仮名)53歳 専業主婦
数回ベビーブレスを経験して、自分も啓子と同じことだったんだ、自分も母親に反発心があったにもかかわらず抑えて育ってきたんだ、と言うことがわかった。
私が母にできなかったことを、啓子が私にしたんだ。今は、啓子さんが身近に感じられるようになった、と久代さんが言う。
啓子さんが小学6年のころ、近くの公立の中学は荒れていて、名門の私立の進学校にやらせることにした。その進学校に合格するように、有名な進学塾に通わせた。
その希望の進学校に合格した。中学一年の教材に、やさしい大学の入試問題程度の問題が使われていたりした。その進学校で懸命に努力した。学年でトップクラスの成績を納めるほどだった。しかし、次の試験で、順位が落ちるのが怖かった。ストレスが大きかった。家の中には、壁などいろんなところに穴が空いた。啓子さんが開けた穴だ。リビングの家具にも、シャープペンの先で開けたのか、小さな穴がブツブツたくさん空いていた。暴力も起きるようになった。
娘の啓子さんが中学のころから、いよいよ暴力がひどくなった。
久代さんにはぐらかされてしまうと感じることが原因なのか、啓子さんは些細なことでも弁解が嫌いだった。例えば、啓子さんが何か小さなことを久代さんに頼んだにもかかわらずやっていないときに、久代さんが弁解するのが気に入らないと言って怒ることがあった。たとえば「はがきを出しといてね」と頼んだのにかかわらず、出すのを忘れる。久代さんは「忙しかった」などと何かの理由を説明する。すると啓子さんの気に入らない。怒る。怒ったときには「おまえ」「貴様」と呼ぶ。暴力を振るい始める。
今思えば「忘れちゃった、ごめんね」で済んだはず、弁解が悪かったと久代さんは言う。また、頼まれたときに「自分で出しなさい」と言えればいいんだが、そのころは啓子さんの暴力が怖くて言えなかった。主人が、暴力を振るう啓子さんと久代さんの間に入ろうとしたこともあったが、かえって啓子さんの暴力は激しくなった。
そのうち、啓子さんより2学年下の小学6年である下の娘にも暴力が及ぶようになった。久代さんが下の娘をかばうとますますひどくなった。
主人に訴えても、主人は「自分(主人)と啓子さんとの関係はいいのだから、問題は久代さんが変わればいいんだ」といって、久代さんは突き放されてしまうこともあった。
久代さんは啓子さんに蹴られ、いつも打ち身、あざを作っていた。やられ放しだった。久代さんが啓子さんに暴力を振るわれても、主人はなす術(すべ)がなかった。
啓子さんが中学2年のころ暴力がピークになった。すごい力だった。まるで啓子ではないようだった。夜中に水をかけられ庭へ閉め出されたりした。そのころは、自分の子ながら怖くて、とてもかわいいなどとは思えなかった。ここでは話せないような恐怖を味わったこともあった。そのころのことを知る人は、久代さんの顔はあざだらけで、とてもまともに見れなかった言う。
久代さんは啓子さんが苦手だった。主人との関係から来ることのようだ。
久代さんは、結婚前から主人には不満、不信感があった。久代さんは、転職先の職場で主人と知り合った。主人とつきあい始めて結婚する前、主人にストーカー的行為をする女性がいた。その女性は久代さんと、前の職場の同僚だった。久代さんの紹介で、同じ職場に転職してきた。後で聞くと、その女性は前の職場でも同じような問題を起こしたようだった。久代さんと主人との間に入って、横恋慕をした。主人に結婚しろと迫ったようだった。職場のビルの屋上に主人を呼びだして「私と知り合いの女性(久代さんのこと)と結婚するのは許せない」と言ったりしたようだ。久代さんはその女性に対して毅然としない夫に不満があった。夫は、自分には「何もやましいことはないよ」と言っていたが、不信感があった。
その後しばらくして、啓子さんがお腹の中にいる妊娠7ヶ月のころに、突然、匿名の手紙が届いた。タイプで打ってあった。いやらしいことが書いてあった。匿名だけれども、例の彼女からだと直ぐにわかった。久代さんは彼女を責めた。すると、主人は「彼女を責めるのか」と言った。久代さんはパニックになった。淋しくなった。翌日、久代さんは急にお腹が痛くなって、切迫早産の恐れで、入院することになった。ショックが原因だったようだ。2週間ほど入院した。
思えば、主人はそのころ、自分だけのために生きていればよかったようだ。周りの人の気持ちを配慮するところが足りないのかと思われた。主人は高校のころから留学し、帰国したときには、父親は転勤しており、一人で下宿し、それからずっと下宿を通した。7人兄姉の末っ子で、あっけらかんとした性格だった。
啓子さんが生まれてからも、育児にもあまり協力してくれず、気ままな感じがあった。親としての責任を果たして欲しいと思うことがあった。夫は「親は親、子は子、でいいんだよ。」と言った。育児のことで話し合っても、受け取ってもらえない感じがあった。夫には話自体は何時間でも相手をしてもらえるが、久代さんは「話が理論的でない」などとやりこめられ、面倒くさくなって黙ってしまう。黙ると「卑怯なり」などと言われた。久代さんは、ますます面倒くさくなってしまった。やりにくかった。不満だった。
啓子さんは主人と似ていた。そっくりだった。啓子さんはどうもやりにくかった。下の娘はそんなことはなかった。啓子さんは1才くらいの小さいころから、久代さんのいうことを聞かなかった。自分の好きなことをやりたいと言う気持が強かった。しつこかった。あきらめなかった。あることを「だめ」と言うと、よけいに、喜んでそのことをやっているように見えた。困ってしまった。根負けしてしまう。
そのうち、だめなことをだめと言って貫くことができずに、啓子さんの気分をそらすことをし始めた。あまりに言うことを聞かないときは、他のことをさせたり、散歩に連れていったりした。啓子さんの気持をはぐらかすようになった。今考えれば、まずかったかなと反省する。しかし、啓子さんに対する苦手意識、つまり啓子さんの中にどうしても受け入れきれないものを感じることは、どこから来るのか、今考えてもよくわからない。
やがて久代さんの気持ちは、やりにくい啓子さんのほうより、やりやすい下の娘のほうへ移っていった。それまでの啓子さんへの暖かい気持は、徐々に変化してしまった。
啓子さんが2歳のころ、主人の留学のために、アメリカで暮らした。そのときのことも啓子さんの気持に影響を与えたのかも知れないと思う。啓子さんはアメリカの保育園になじめなかった。ある時、保育園から電話がかかってきて「啓子が泣いて手に負えないので来てくれ」と言われた。言ってみるとひどく泣いていた。話を聞くと、啓子さんはトイレに行きたくないのに無理に連れていかれて、体の大きなアメリカの婦人(いつも園児の親の一人が居て子供の面倒を見る習慣になっていたが、婦人はそんな一人の親だった)に体を便器に抑え付けられた。それが怖くて大きな声で泣いたようだった。啓子さんは、他の子供より泣き声が3倍くらい大きかった。その事件があって、啓子さんは先生の後ばかりついて回るようになった。先生は仕事ができなくなり、啓子さんは退園することになった。そのときの恐怖が、啓子さんの不安な気持ちをつくる原因の一つになったのかも知れないと思う。
そんなことで、啓子さんは昼間も家ですごすことになった。ところが、そのころ、下の娘は、O脚だと言うことがわかり、無理に歩かせるのは医者に止められた。それまで普通に歩いていた娘が、おんぶ、だっこ、乳母車になった。夜は、O脚矯正用の金具の付いた靴を履いたまま寝た。当然、そんな靴を履いたままでは子供でも普通には寝れないので、久代さんは娘をあやさなければならなかった。娘をおんぶして一晩中あやしたこともある。主人は、留学の勉強中で時間の余裕がなく、頼るわけにはいかなかった。
その為、下の娘の世話で手が空いておらず、啓子さんの十分な世話ができなかった。また、仮に空いていても、睡眠不足で、啓子さんにうまく関われなかった。啓子さんは、保育園のこととあわせて、ダブルパンチだったに違いない。淋しい思いをしたに違いない。
なのに、啓子さんは、下の娘が「どうして」急におんぶにだっこになったのか、親に問いつめることをしなかった。不平を述べることをしなかった。久代さんは、このことを思い出すと胸が痛む。ある時、啓子さんは寝ている下の娘を見ながら「どうして、おかしな靴を履いているの」と聞いた。久代さんは、娘のO脚のことをあまり話したくなく、啓子さんに十分な説明をしなかった。啓子さんに何と答えたのか覚えていない。また、はぐらかしてしまった、と久代さんは言う。久代さんが後悔することの一つである。
啓子さんは主人と似ていた。顔も似ているし、物事に対する反応のしかた、表現の仕方ががそっくりだった。
例えば、啓子さんが小学2年生のころ、東京駅の八重洲口が工事中で細い通路になっていた。その細い通路で啓子さんがバレエの白鳥のまねをした。前日にバレエの発表会を見て印象深かったのだ。くるっと回って両手を上げて、足を上げて、本当に白鳥に見えるほどまねが上手だった。主人が同じようにバレエのまねをした。手を上げ、足を上げた。啓子さんが喜んだ。久代さんは恥ずかしくてたまらなかった。細い通路をたくさんの人が通っていた。みんな見て通った。久代さんは他人のふりをした。啓子さんと主人は恥ずかしくないようだった。でも、久代さんはいやだった。
啓子さんは、そのころから、いよいよ扱いにくくなった。啓子さんの通っていた小学校は女子も男子と同じような言葉使いをしていた。久代さんは気に入らずに、啓子さんにはちゃんとした言葉使いをさせたかった。久代さんは、「自分はそのころ気取っていたのかも知れない」と言う。啓子さんの言葉を直した。「そんなのは男の言葉でしょ。女の子はそんなことは言わないのよ」などと言った。このことに反発して、後でひどい言葉を使うようになってきたのかも知れないと、久代さんは言う。
また、ピアノの練習をするようにうるさく言った。練習してから、遊びに行かせたかった。しかし、啓子さんはいいつけられたり、命令されたりすることが嫌だった。なかなかいうことを聞かなかった。主人にそっくりの性格だった。
禁止しようとすると、余計に反発する場合があった。あるとき、啓子さんが「チビクロサンボ」という本のストーリーに沿って主人公のまねをし、服を脱いで行った。見ていてとても、生き生きしていて、面白かった。しかし最後にはパンツまで脱いでしまった。そのことを、「やり過ぎよね」と柔らかく注意しようとすると、「じゃあ、もっとやるぞ」と反発した。
また、啓子さんはこの頃から下の娘に意地悪するようになった。
啓子さんは小学3、4年のころから親を、それまでの「パパ」「ママ」から、「ねえ」などと呼ぶようになった。暴力も少しずつ始まった。
小学3年のころ、学校の担任が十分に勉強を教えきれないので、塾の公文に通った。4年生で中学の分まで進んでしまうほど勉強した。時間を決めて問題を解くやり方だった。啓子さんは時計を見て「アー」と悲鳴を上げながら勉強した。久代さんはその様子を見て、2年でやめさせる。啓子さんは「やりたかったのに」と親を恨んだ。啓子さんは勉強でいい成績を上げることが自分を親にアピールする方法だったようだ。しかし後で、大学を卒業してから親友に告白するには「本当は勉強したくなかった」ということだった。
啓子さんは中学2年のころに暴力がピークになった。強迫神経症的な症状も現れた。
中学3年のときに、あまりストレスが強いようなので、この進学校をやめさせて公立中学校に転校させようかと話したこともある。久代さんは転校しないことを選んだ。
啓子さんが高校生のころ、後になってわかったことだが、啓子さんは自分で洋服を選べなかった。
そういえば、大学生になった啓子さんと一緒に買い物に出かけて、啓子さんが選んだ服を、久代さんは「これは安っぽいわね、あっちの方がいいんじゃない」と言って否定してしまう。啓子さんは傷ついた。主人に相談すると「ばかだな、そんなのいいんだよ」と、後で主人も一緒に出かけた。そして、おかしなものを買い物袋一杯に買ってきた。久代さんが「え、そんなの買ってきたの」というと、主人は「いいんだよ」という。そのとき久代さんは「ああそうか」と思った。久代さんは、初めからいいものを着せたかった。
そして、わかったつもりになり、久代さんは言葉では言わないようにしても、顔に出てしまう。あるとき啓子さんがクリスマスにコートを買うことになって、二人で買い物に出かけた。久代さんが思っても見なかったようなお店に啓子さんが行って、「これ」とコートを指したとき、久代さんは「えっ」と顔に出てしまった。途端に啓子さんは「ふん」と帰っていった。自宅に帰ったときに、啓子さんは「貴様」と怒り始めた。まずかったなと思った。
思えば、自分と母親の関係も似ていた。母親はおしゃれで、趣味もよかった。久代さんが高校のころに「これ買いたい」と言ったら、「そんなの安っぽい」と言われて、傷ついたことがあった。「安っぽい」というのは母親のよく使う言葉だったのだ。久代さんは、自分も母親と同じことをしている、私だっていやだったのに、同じことを子供にしている、と思う。
啓子さんは久代さんが価値観を押しつけるのがいやだった。自分が否定された感じがするのだと思う。啓子さんは、自分に自信がないから、否定された感じがよけいにつらく響くのだと思う。もともと母である久代さんに愛されているという自信がないのだ。 これに比べて、下の娘は自信があるので、久代さんが同じような扱いをしても全く平気である。あるとき、下の娘が買ってきた服を見て、久代さんが「そんなの買ってきたの」と言っても「いいの。ママのはオールドファッション。」と言って、平気である。しばらくして、下の娘が着ているのを見て慣れてくると「あれ、いいわね」と思ったりする。下の娘は啓子さんに「お姉ちゃんね、ママが「おかしい」って言ったって、そんなの無視すればいいのよ」と言ったりする。啓子さんは無視することはできない。
啓子さんが変になったのは、主人がかかわらなかったから、主人が甘すぎたから、主人が父親としての力がなかったからとか、と思っていた。主人を責めていた。逆に、主人は、母親が一番、啓子に接している時間が長いじゃないか、母親がしっかりすればいいんだ、という。お互いに責め合った。
そういえば、主人は私のことをバカにしている。私を認めていない。啓子さんが中学1、2年のころに、久代さんは甲状腺機能障害になった。啓子さんのことから来る疲れ、ストレスが原因のようだと思われる。その障害のせいで記憶力なども低下した。耳も聞こえにくいので、聞き返すことが多かった。すると、主人は子供の前で「ママはぼけちゃっているから」などと言った。いたわりがないと思った。悲しくて悲しくてたまらなかった。
パソコンのことでも、子供のほうが理解がよかった。自分は苦手だった。すると主人が「ママは結婚してから頭を使わなくなったからな」などと言った。主人に認められている感じがしなかった。
啓子さんが大学生のころ、ある日曜の朝に、親戚(久代さんの母と兄)が訪ねてきたので自宅に入れた。啓子さんはまだパジャマだった。親戚が帰った後で啓子さんが怒った。「恥じかかせる気か」。暴力が起きた。
その数日後、久代さんは啓子さんにお灸をしていた。そのころ啓子さんは体の調子が悪く漢方薬を飲んだり、お灸をしたりしてした。そのときも、いつものように夜中に久代さんがお灸をしてあげていた。久代さんは疲れていた。そして、モグサの黒くなった熱いのが啓子さんの皮膚に落ちた。啓子さんが怒った。「わざとやったな」。ひどい暴力が起きた。
寝ている主人は、騒ぎが聞こえているはずなのに起きて来ない。後で主人は「知らなかった」といった。暴力が長期にわたって起きているので慣れてしまっていたのかも知れない。しかし、いたわりがないと思った。
2ヶ月ほど家を出た。自宅から割に近いところにある実家に戻った。離婚しようとさえ思った。久代さんが実家にいるとき、小さいころから日頃は啓子さんをかわいがっている母親が、電話で啓子さんと話をした。そして、母親は久代さんをかばって電話で啓子さんを叱った。いつになく激しい口調だった。すると啓子さんが電話の向こうで「くそばばー」と叫ぶ。母親が「なんだとー」と応じる。二人とも気性が激しい。
もっとも、この家出を契機に主人が変わった。ホントに変わった。それまで主人も、自分から自己啓発セミナーなどを受けて変わりつつあったけれども、この家出を契機に夫婦の関係はよくなって来た様に思える。
母親は教師、父は警察の事務官だった。二人は恋愛結婚だった。
しかし、後に、母は後に父が不満だった。口べたで物静かな父に、物足りないものを感じていたようだ。久代さんは、そんな父とは正反対の夫を選んだ。
小学3から4年生までは自由奔放だった。その後、大人しくなってしまった。大人しくなったことには、何かがあると思う。思えば、この変化の時期は、啓子さんが親を呼び捨てにするなどはっきり反抗し始めた時期と同じだ。
大人しくなったのには、多分母親の影響があると思われる。母親は久代さんの交友関係にも口を出した。「ほんとのこというと損するよ」と本音では話していけないということも母親から教えられた。世間体を大切に、いい子でいることを学んだ。母親の影響が強かった。母親の言うとおりにしていれば安全な感じがしていた。失敗するのが怖かった。そのせいで、一通りの友達しかいなかった。
久代さんが大学生のときに、大学からの帰りが遅くなると、母親がすごく心配したので、部活などはやりたくてもできなかった。「やりたかった」と思う。仲間同士での旅行もしたかった。
母親は、久代さんに関しては、何でも母親のいうことを聞くし、いい大学を出ていい結婚をして母親の面倒は良く見るし、子育ては大成功だと思っている。
ベビーブレスを経験した啓子さんに連れられて、久代さんがベビーブレスを受けにやってきた。合計4回受けた。
1回目はうまく行かなかった。2回目は、ベビーブレスは気持ちがいいなという印象だった。3回目のときは、うまく行かなかった。不満などの感情を出したくても誰かに説得されて出せなくなるいつもの状態になってしまった。二日くらい頭が痛かった。とても疲れた感じで懲りてしまった。もう中途半端はやらないぞと思った。4回目には、ずいぶん暴れた。自分も「啓子と同じにやりたかった」と叫んでいることにびっくりした。啓子がすごく愛しく思えた。身近に感じるようになった。
数年前から啓子の言い方は激しいけれど、言っていることは正しいかなとわかるようになっていた。しかし今までは、さらに、はっきりとわかることがある。
例えば、啓子さんはこんなことに怒っていた。久代さんは、相手が初めて聞くようなことでも、相手があたかも知っていることを前提とするような言い方をする癖があった。「あれでしょ、・・・」「ほら、・・・」。自分では昔から身に付いた自然な言い方だった。夫は「「ほら」なんて言っても僕は知らないよ」といって済む。下の娘は「「ほら」と言ったって知らない」と言って済む。しかし啓子さんは、前触れもなく怒りだした。始めは、なぜ怒り出すのかわからなかった。あれこれ聞いてみて、自分の言い方の「癖」に怒っていることがわかるという具合だった。
久代さんは、そんな小さなこといちいち言われたら話もできないじゃない、他の人もそのくらいのこと言っているわよ、と思う。でも言い返せない。
ベビーブレスをやって、気が付いたら、それは母親の癖だった。母親が「ほら、・・・」と盛んに言うことに気が付いた。今度は自分が母親のその癖が気になって我慢できなく、気持ち悪くなっていた。久代さんが「お母さん、その言い方は少しおかしいわね」と言うようになって来た。啓子さんの感じる気持ち悪さが理解できるようになってきたのだ。そればかりか、母親の声を聞きたくもないし、顔も見たくない。まるで、啓子さんそっくりだ。
母親はいろんな会の代表役をボランティアでやっていて、よく外出する。また、鍼灸や眼科医へもよく通う。そんなときには、久代さんは母親に電話で呼び出され、車を運転して、母親を送り迎えする。
あるとき久代さんは庭の木の枝を剪定して、その切った枝をたくさんのゴミ袋に入れて庭の脇に置いていた。そのゴミ袋を兄嫁が近くのゴミ置き場まで運んでくれた。そのことで母親が車の中で兄嫁をほめて「働き者だね」という。久代さんは思わず「ふん、切る手間に比べたら何でもないわよ」と言ってやった。思わず出た。やったーと言う感じだった。いい気持ちだった。今までだったら「そうだわね」などと調子を合わせていた。「ふん」などと、今まででは考えられない言い方をしていた。いままでいい子していた。
このことで、かえって母との関係はよくなった。久代さんが楽になった。車の送り迎えなど同じことをしているのに嫌でなくなった。
それまでは車での送迎を母親に頼まれて嫌であっても、我慢していた。我慢ができなくなってから断っていた。直ぐには断れなかった。ところが、今は、嫌だったんだということに気が付いた。母親にこんなに不満を持っているなんて思っても見なかった。気が付いてみると、母親に「今日はタクシーで行って」と楽に言えるようになった。お腹の中になんにもない、我慢もない、という感じになった。そうして、自分が楽になった分、母親との関係もよくなった。
また、啓子さんから、初めて心の通じる手紙をもらった。自分も返事を出した。今までは、啓子さんが母親のことをひどく言う度に母親をかばっていた。今は、久代さんが母親のことを正直に啓子さんに言える。
「やっと始まりかな」「嬉しい」と久代さんが言う。
娘の啓子さんは、本当には久代さんから愛されない感じがしていたと思われます。久代さんからの本当の愛情を取り戻すには、自分を認めてもらうには、懸命に勉強をやるしかなかったようです。でも、なかなか、久代さんには思うようには通じませでした。そして、暴力になったのです。
久代さんは、夫が持つ苦手な部分をそっくり持っている啓子さんが、小さいころのある時期から段々扱いづらくなっていきました。それでも何とか、啓子さんを自分の思うようにしたかったのです。あたかも、母親が久代さんをそうしたように。でも、気性の激しい啓子さんは、思うようにはなりませんでした。啓子さんから暴力を振るわれるとき、久代さんはポーカーフェースで耐えた、といいます。自分が小さいときも母親に対してポーカーフェースだったのかも知れません。そういえば父親がポーカーフェースでした。父親が怒っているのは見たことがないのです。
暴力を使ってでも自分を主張しようとする啓子さんの積極的な強さに対し、どんな暴力を受けても、耐え抜いてしまう久代さんの消極的な強さがあります。両者の強さは、現れ方は正反対ですが、まるで同じ強さのように思えます。久代さんの消極的な強さは、久代さんが子供のころから何かの「辛さ」を堪え忍んで来ることで形成されてきたもののように思えるのです。それは、どこから来るのか、どんな辛さなのか。これから、久代さん自身がつかんでいくことになると思います。いま、久代さんは母親に対して、自分に正直に自然に振る舞えることの心地よさを味わい始めています。
それにしても、啓子さんが2歳頃から、啓子さんの中にどうしても受け入れきれないものを久代さんが感じていたのは、一体どういうことなのか、どこから来るのか。今後、久代さん自身が探って行くべき最も重要なことなのかも知れません。
林 : 「気性の激しい啓子さんが、久代さんさん(母)より先にベビーブレスをやってくれ、ベビーブレスの中でさんざん怒りを出してくれました。久代さんさんは娘(啓子さん)に連れられてやってきたが、始めは、自分には問題ありません、という感じでした。なんとか娘にはよくなって欲しい、けれど自分には問題があるとは思えません、娘と私は性質が正反対なんです、娘が特別なんです、とんでもない大変な子供を持ってしまった、親に問題があると言われるけれど、どういうことか具体的にはわからない、啓子さんが自分の問題として捉えベビーブレスなどをやってくれるのはありがたい、というようなことだったと記憶しています。」
雲泥 : 「一回目のベビーブレスの後の話し合いでは、「私には問題がない」ということで取り付く島がありませんでした。失礼になりますが、まるでツルンツルンのタマネギ状態でしたね。啓子さんに「お母さんのことはあきらめて自分のことをやりなさい」と、みんなの前で言いました。きついことを言いましたね。」
林 : 「そうですね。」
雲泥 : 「それ以外方法がなかったんです。実際に、どうにもならない状態でした。うそを言って隠すわけにもいきませんし・・・。」
林 : 「思うに、久代さんのケースは、よくある親子関係のケースで、お母さん方が陥ってしまう心理と共通する部分があります。つまり、お母さん方は、この子供のことがよくわかりません、手こずっています、私は普通に育てたのに、子供が問題児なんです、という状態にある。特に、登校拒否や家庭内暴力の母子の相談で、同じような感覚を母子に感じることがあります。母は、自分はそれでいいと思って育てていて、決して悪気はないからです。そして子供のことはわからないのです。」
雲泥 : 「そうですね。」
林 : 「ところが、久代さんはきついことを言われ、触れるものがあったのか、その次の日、二回目のベビーブレスで久代さんは手がかりをつかみましたね。」
雲泥 : 「つかみました。その後の話し合いで、久代さんがベビーブレスは「気持ちがいいんですね」と言って、参加者のみんなが思わず拍手しそうな雰囲気だったのを覚えています。」
林 : 「娘(啓子さん)が自分(久代さん)に反抗する激しいエネルギーと同じものが、自分の中にあったという気付きがすごいかった。ベビーブレスじゃないと得られない気付きだと思います。」
雲泥 : 「ベビーブレスは、感覚的に中心の部分だけつかむという感じがありますね。カウンセリングなどは周辺からじわじわと核心ににじり寄って行くところがある、理屈を通して徐々に近づいていく作業が中心になります。ところが、ベビーブレスは割に、いきなり核心部分に届いてしまう感じがあります。
例えば橋頭堡みたいなものかな。戦争で、前線を挟んでこう着状態の時に取られる戦術の一つです。本来の前線から攻めてもとても攻めきれないときに、敵地の核心部分に落下傘部隊などを降ろし小さな陣地を作る。その小さな陣地をうまく利用して敵地を切り崩していく。そのことと、とても似ています。」
林 : 「話を少し前に戻しま。母は、子供を一生懸命に育ててきた。自分にやましい部分はない。子供にのみ問題があると思ってしまう。母親(祖母)のいうことを自分自身(母)はよく聞いて育ってきた。なのに、自分のいうことを、どうして子供は聞かないのか、納得できない、と言います。」
雲泥 : 「母は何とかそれでやってこれました。でも、子供はそれでは嫌だ。子供の代で、その親子関係のパターンは破綻する。ではなぜ、母親(祖母)の要求に母が耐えられて、母の要求には子供は耐えられないのか。社会的、時代的な理由のみならず、感受性などの個人差の理由があるのかも知れません。
でも、辛い状況は同じはずです。意識するかしないかの問題なのかも知れませんが。ある意味では、母(自分)は、辛さがわからなくしてしまっていて、それで、何とか耐えられる状態にあるのかも知れません。」
林 : 「だから久代さんも子供(啓子さん)の苦しみがわからないのです。自分のことをわからなくして頑張ってきたからでしょうね。」
雲泥 : 「分からなくしないと頑張れないですよね」
林 : 「それがベビーブレスでいきなりわかってしまいました。「お母さんのことはあきらめなさい。」と言っていたのが、そのお母さんがやったのです。やっぱり親ですね。その子(啓子さん)の本当の意味で「親」だったんですね。」
雲泥 : 「久代さんが娘さんに答えましたね。娘の強い欲求に、答えて自分も開いたんですね。そんな風にながめると、娘の暴力は愛情の裏返しですね。そして、答えたのも母(久代さん)の愛情ですね。」
林 : 「だから、このケースは愛情がなくて起きたケースと言うより、本当の愛情のケースという感じですね。」
雲泥 : 「そうですね。見かねて「あきらめなさい」と言ってっしまったほどでしたから。」
林 : 「きついことを言われたけど、ひょっとしてそれが響いて、母はやったのだと思います。飛び込んだと言う感じですね。母の愛情というものを感じます。娘の気持ちを知りたいというところから、始まった。それって、本当の愛情ですね。子供を救う本当の愛情です。」
雲泥 : 「啓子さんの暴力も・・・、暴力でなければもっとよかったけど、しょうがなかったんですよね。それも愛情の一種だったんです。」
林 : 「余談だけど、久代さんが本格的に自分を取り戻したら、かえって啓子さんと激しい喧嘩になるかもしれません。本音の喧嘩になるでしょう。でも、はぐらかすことがなくなるでしょうね。」
林 : 「ところで、この体験談はすべて本人のOKをもらっていて、それが重要なワークになっています。このケースは、久代さんとご主人のみならず啓子さんのOKを取ることにしました。そのため久代さんは、原稿を啓子さんに見せることをOKしてくれました。文中には、本当は娘に愛情が行っていなかったというふうにとれる部分があります。見せるのは、とても勇気の要ることだと思います。」
雲泥 : 「勇気がいります。決心もいります。久代さんは、始め原稿を娘に見せるのをためらっていました。娘を傷つけるかも知れないと。」
林 : 「娘は傷ついたりします。しかし、娘はそこからしか、本当の自分の傷を観ることができないでしょう。どうか、しっかりやって欲しいですね。大きな手がかりになると思います。」
雲泥 : 「娘はどうしようもなく暴力をくり返し起こしてしまって、母親から本当の何かを引き出したくて必死だったのですね。本当の答えを引き出したかった。ところが、その答えとは、本当にはあなたのことを愛してはいなかった、と言うことだったのです。この答えが、どれだけすごい意味があるか・・・。そのことを娘に伝えることをOKしたということは、もう既に娘に、心底謝っている事になります。」
林 : 「謝って、もう降参!。たたいていいよ。暴力をしていいよ。それだけのことはした、と告白したのと同じですね。最後の答えですね。」
雲泥 : 「それが、この自分の体験談を娘に見せることをOKするという意味ですね。」
林 : 「こういう親(久代さん)こそが子供を救うことができると思います。」
雲泥 : 「久代さんは、愛せなかったことを伝えると娘を傷つけるかも知れないと思ったんです。でも、それは違うと思います。本当のところは、逆に、その事実を隠すことで、深く傷つけたのです。その事実を認めることで、本当に娘と向かい合える。愛せなかった・・・、なぜ?。この「なぜ」が直ぐ後ろにくっついてきます。久代さんは、この「なぜ」と直ちに向かい合わなければならなくなります。そこへ行くしかありません。「どうしてそんなことになったのだろうか」と。本当の自分をさらけ出して娘と向かい合う道に、既に一歩入り込んでいる。そのことこそが、娘が心から望んでいたことでしょう。」
林 : 「原稿を見せる決心ができなかったら、そこへ行くことは起きてこない。娘を救うということは自分を観るということなんですね。」
雲泥 : 「しかし、普通は、観たくないですよね。観るということは、本当に、勇気がいります。」
林 : 「こんな勇気のある母親であれば起きなかった・・・と思うことがたくさん世の中にはあります。激しい例ですが、子殺し、母殺しの事件がたくさん起きています。本当のことを観ないで隠しているから、そういうことが起きてしまうと思います。」
雲泥 : 「本当のことを観ることなんて、とてもつらいから、できませんよね・・・。できないから、このまま(観ないまま)一生行くしかないと、無意識に決めていたりします。子供は、そんなんでは嫌だ、そんなまま死んでいって欲しくない、自分も死んでいきたくない、と暴れるのです。」
林 : 「母にも増して娘(啓子さん)は苦しいですね。それに、啓子さんは始め、暴力を振るった「自分が悪かった」と思っていましたから余計苦しかった。その「悪かった」という思いを、どこに持っていっていいかわからなかったのです。私は、彼女に両方(自分の原因と母の原因)を観るべきだと言いました。彼女はその頃にベビーブレスを始めたのです。自分で暴力を振るいながら、すごい罪意識にさいなまれる。本当のことがわからない状態です。
本当のことに到達するのは大変です。このケースのように親(久代さん)がやってくれたら、子供(啓子さん)の労力は、少なくて済みます。独りでやらなければならないと、労力は倍になります。
つまり、小さな子供の場合には、親が自分のことをやって本当のことに到達すれば、子供は変わる。子供の労力は、ほとんどありません。しかし子供が既に成人している場合などには、親がやっただけでは、子供は変わらない。子供も自分のことをやらなければなりません。でも、親がやってくれれば、労力は少なくて済みます。しかし、親が頼りにならない場合には、子供は独力でやらなければならないので、労力は倍になります。このケースの場合には、ほんとに幸いです。」
雲泥 : 「答えてくれる親がいるというのはいいですね。」
林 : 「ところで、なぜ自分の傷を観るべきなのか、説明が必要だと思います。特にベビーブレスなどを全然やったこともない人に。なぜなら、そんなとんでもないもの-傷-を今さら観て何になるのか、ということになりますから。」
雲泥 : 「そうですね。説明してください。」
林 : 「例えば、自分の子供を一生懸命愛する努力をするけれど、どうしても本当には愛せないとします。すると、本当の親子関係は築けず、偽物の関係が成立し、トラブルが発生してしまいます。トラブルに疲れ果て、愛するということなど、どこかに失せてしまいます。そして自分探しが始まる。やがて、例えばベビーブレスにうまく入って行くことができ、幸いに自分を観ることができたとする。そして「実は愛せなかった」という傷に気付いたとします。すると、本当は愛したかったと言うことが切実に露(あらわ)になる。そして、愛情が湧き出てくる。何とかしてやりくりし作り出した愛情とは違う、本当に通じる愛情です。自分の傷を観るべきだというのはそういうことなんだと思います。
このことは換言すると、自分の本音に正直に居るということです。これはとても難しいことです。
例えば、ベビーブレスをやってみたけれどうまく入れなかったとします。うまく入れなかったというだけでは済まずに、ベビーブレスの悪口を言う人がいるのです。傷を観て、暗い面ばかりを観て行くベビーブレスという手法は変だという人がいます。あるいは、なにかのせいにする人がいます。そのようにして自分の気持ちを隠してし、防衛してしまうのです。
もし本音のまま、自分は「うまく入れなかった・・・」とため息混じりにいうならば、それは「入りたかった」という気持ちを真っ直ぐに表明することになるのですが。その真っ直ぐさが次回のベビーブレスでは、うまく入って行くことのきっかけになったりするのです。
入っていけなかったという事実を正面から受け入れ、「入りたかった」という気持ちを表明することで、入っていくことの準備が自然に起きてくる。「うまく入れなかった」というのは、自分の中に、傷を観ることの「恐怖」があることを堂々と認めることになるのです。そして、認めることで次回のベビーブレスでは、その「恐怖」が何であるのかを観る可能性が出てきます。
「実は愛せなかった」「うまく入れなかった」と自分に正直に居れば、つまり自分の本音といっしょにいれば、どれほどすごいことが起きてくるか、どれほどの深みに届くか。このことを理解して欲しいですね。しかし、それには勇気がいります。
逆に、うまく入れなかったり、愛せなかったりしたことを、自分を守るために、いろいろの理屈を付けて合理化してしまえば、決して自分を観ることにはつながりません。本当には愛せないのです。合理化して隠しているうちに自分の本音もわからなくなってしまう。
勇気を出せた分、その人は望むものを手に入れることができる。このケースの久代さんは、少し途中だけれど、それができました。」
[booklist]