私わかった!3/3|アコールセラピーの現場から(709)

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⑨ <死に対抗する狂気、あるいは死そのもの>


<W>
絵の⑦⑧のように無表情になったり分裂したりして、自分を隠しますが、うまくはいきません。隠された自分は必ず復讐します。心の中に温存されます。それがこの顔です。
<H>
よく描いてくれました。
<W>
揺らぎがあるものの、彼女の持つ強烈なエネルギーがレーザー光線のように、ときどき、本質を突きます。
<H>
ズバリと突きますね。
<W>
死に対抗する狂気の顔です。あるいは自分を脅かす死そのものなのかもしれません。狂気か死そのものなのか、この辺は一体混沌でしょう。

⑩ <私の死、死を受け入れた自分を包み込む>

彼女自身からの説明です。
「私の死です。今までの私の死は突然現れては私を追いかけ回してくる暗くて寂しくて恐怖そのものだった。私の死のイメージは母からの死だった。(死から逃げ回ることをやめ向き合って)この“死”という事だけに必死に焦点をあてて、怖くても蹴り飛ばしたくても(そうせずに)純粋に死だけを願っていた時に「私の死は自分で決める!!奪わないで!!」
と私の中から出てきた。その時の死は私を包み込んでとても暖かく物凄く愛情があり私の全てを優しく包み込んでくれた。その死は、母からの死ではなく、私の中にある私だけの死だった。その私の死を絵にしたものです。」
<H>
やりました。ついに。
<W>
そうです。受け入れが起きました。
<H>
私もその現場にいました。
しかし、彼女の激しい気づきにしては、上の絵は、なんだか穏やかすぎますね。
<W>
そうです。
私の感じでは、上の⑨と⑩の間には、死を受け入れる大きな、大きな激しい気づきがあった。
彼女の大きな気づきは、まるで嵐の中の遭遇のようでした。それまでのはっきりしない謎のようなものが消え、「私わかった!」と叫んだ彼女の顔が今でも思い浮かびます。
しかし、絵には描かれていない。その気づきの瞬間はあまりにも痛く、あまりにも強烈で、絵にできないのかもしれない。あるいはいまだに痛すぎて、完全には思い出せないのかもしれない。上の絵⑩は大きな嵐が過ぎた後の絵のようです。結果の絵です。
<H>
ここで「私の死のイメージは母からの死だった」とあります。はじめて認める感じです。
<W>
彼女の心の中には、そのことは既にあったのでしょうが、外に向かって認めるのは、遅れる傾向にあります。あなたの言う「わかりたくない揺らぎ」が遅れをつくるのだと思います。
<H>
絵の話ですが。真ん中の小さな丸い黒っぽい部分が死で、その死をピンク色の小さな自分が抱えています。小さな自分が、それまでの自分でしょう。その死を抱える小さな自分を、死を受け入れた大きな暖かいオレンジ色の自分が、包み込んでいます。死を自分のものにした状況ですね。
<W>
「私だけの死」という気持ちを表した絵ですね。
「私だけの死」というのは、母親から強制されていやいや死んでいく自分というのから縁を切ったともいえます。自分自身で自分の死を引き受けるということだと思います。自分で死を引き受けた時に初めて、自分自身が生きていけるという、そういう風に言えます。
彼女の強い怒り、すなわち生きるエネルギー・・生と、ここで受け入れらえた死が合体して、生と死の統合がなされ得たと言って構わないと思います。

⑪ <母親(の母性)との和睦>

彼女自身からの説明です。
「おっぱいを飲んでいる絵です。私が母に置いて出て行かれた(絵⑤)時、母を探し母が恋しくて、おっぱいが恋しくて、温かい母乳が恋しくて、泣いた。泣いても、泣いても母はいない。母の気持ち、母の意識もない。寂しくて、怖くて1人で死を目の前に突き付けられた感じだったが、それでも私は母を求め、おっぱいを求め、母乳を求めた。私の純粋に母を、そしておっぱいを求める気持ち。そこに母親がいなくても母の意識がなくても私の中にある理想のおっぱい=理想の母親を絵にしたものです。」
<W>
子供(彼女)に愛情を与えられない「現実の母親」を卒業し、「理想の母親」が手に入った。あるいは「母親そのもの」から、「求めるという自分自身」に、重心が移った。自立。言葉にするとそう言えるかもしれません。
<H>
「そこに母親がいなくても母の意識がなくても」かまわないという心境ですね。
<W>
ええ。
そのような心境に意識してなろうとしても無理ですね。自立しようと思っても無理です。それは結果ですね。
<H>
あれですね。
<W>
あれです。
統合です。
それまで自分に死を迫る母親に対して、心の奥では怒りがあったはずです。彼女の激しいエネルギーに支えられ、激しい怒りがあったはずです。わからないまま怒りパニック発作にも一役かっているのでしょうが、怒りはそもそも、生きようとする生のエネルギーです。
ところが反対側には、彼女は長い間嫌い続けましたが、死がありました。自分自身の死の狂気があったはずです(絵⑨)。その死を受け入れた途端に自己の回復が起き(絵⑩)、母性との仲直り(和睦)が行われました(絵⑪)。すなわち生と死の統合です。
<H>
自立したいなら統合せよ。統合を目指すなら死を受け入れよ・・。
<W>
彼女の場合は、怒りという生が強すぎ、死を徹底して嫌っていました。逆の人もいます。その場合には、起きるプロセスは異なります。その場合には、生を受け入れよ・・・が起きます。
<H>
最後のおっぱいの絵は印象的でした。私の場合と似ていました。
<W>
あなたの場合も、口に入りきらないほど大きな乳首のイメージが出てくる、あるいは空いっぱいに広がる乳房のイメージが出てくるということでしたね。
<H>
この記事で彼女のケースを全体として観ることができますね。よかったです。ほかの人の勉強にもなります。
<W>
最後に、この記事の掲載に協力し許可してくれた彼女自身にお礼を言いたいと思います。

<<終>>

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