母親の意識の中に自分がいない|心に刻まれた死の恐怖|セラピーの現場から(701)

「母親の意識の中に自分がいない」
<W>
ベビーブレスで、自分の心の不調の原因となっていたものを受け入れると、自然治癒が働いて自分から健康になっていきます。
<H>
そのプロセスは驚くような劇的なものを含みます。そのプロセスを全力で支えるのが私たちの仕事です。
<W>
原因が何か、分かればいいのですが、心の奥では、分かりたくないのですから、分かりたくないという抵抗と戦うことになりますね。いきなり原因が分ったりは、しにくいですね。
<H>
そこのところは人それぞれです。
ですが、ベビーブレスという強力な手法がありますので、原因の断片は手に入りやすいです。断片をパズルのように合わせて、原因に近づきます。
<W>
そうして分かった原因として、かなりの人に共通して言えることがありますね。
<H>
あれですか。
<W>
あれです。
<H>
母親の意識の中に自分がいない。あるいは、いなかった。
<W>
はい。小さなころですね。
<H>
小さなころは感覚が鋭いですからね。本人が大きくなっても母親の意識はそれほど変わらないでしょうが、小さいころに大きな被害を受けます。
<W>
大人になってからは、被害つまり傷を受けていることは、はっきりしていません。少なくとも意識の上では・・。蓋をしていた、などといいますね。
<H>
ベビーブレスと分析を重ねて、そこのところが、心の不調の1番奥の原因だったとわかる日が来ます。
<W>
分かった途端に大きな変化がありますね。
<H>
ありますね。分かったことで、これが原因だったと本人が一番感じる。身の回りに大きな変化が起きる。根本的な変化です。今までにないような心の霧が晴れたような感じを受ける。
<W>
そのまま、分かったことを維持できればいいですが、・・・。
<H>
分かっても、数時間後に忘れたり、数日経ったら忘れたり、することがあります。揺り戻しです。
<W>
身体は大人でも、その部分の心は小さいころのままですからねえ。
<H>
そうなんです。
母親の意識の中に自分がいないことは、小さな子供にとっては、死を意味します。分かることは死が待っている。現実的な死ではないですが、小さな子供が感じる恐怖の死です。心の中には、いまだに小さい頃の死の恐怖が癒(いや)されないまま刻み込まれていたのです。命の源であるはずの母親を失い、死の恐怖にさらされる苦痛に耐えられない。耐えられないからこそ、いろいろな不調が起きていた。
<W>
そうですね。
愛されて育つべき小さな子供が、愛されないどころか、母親からの死に、さらされるのですから。究極の死です。
しかし、やがて小さなころの現実を受け入れていきます。
<H>
その受け入れこそが、成長と呼べるもののような気がします。小さなころに果たせなかった成長です。なかなか難しいです。
<W>
そこで役立つのが、「健康な自分」ですね。自立して生きようとする健康な自分です。生です。もし健康な母親から愛されたらどうだったか、と・・。
<H>
はい。
自分の子供が意識の中にないという母親は、やはり、母親自身が心に傷を持っているわけです。母親も心に傷を持っていたことは、自分(子供)も、ベビーブレスと分析を通して、分かってくるのですが、それでも難しさは同じですね。死の恐怖はなかなか受け入れられない。
そこで、母親が健康であったらどうだったかということを想起してもらいます。仮に健康な母親から自分が愛されたらどうだったか、どんな感じがするかと・・・。
<W>
そこには喜んで愛情を受け入れる健康な自分がいるわけですね。それまで求めても無駄と諦めていたのに、強烈に愛情を求める健康な自分がいる・・・。生きようとする健康なエネルギーを自分の中に感じることになるのですね。
<H>
時として爆発するようなエネルギーを自分の中に感じることになります。その健康な自分は、母親には関係なしに、いるわけです。母親が愛情をくれまいと、傷持ちであろうと、いるわけです。自立している。
<W>
そうそう。それまでは現実には、子供を愛せない、傷持ちの母親が目の前にいるわけですから。愛情を求めるなんて、ムダ、無理、あり得ない・・・。そんな状況が、長い間ず——と続いていたわけです。母親にやられて、健康な自分でありえなかったのです。病んだ母親から自立できなかった。
<H>
健康な自分が、健康な母親から愛されたらどうだったか、というような時の感情は、生きようとする肯定的な感情です。
<W>
その生のエネルギーを強く体験できるのも、それまで、自分の死に向かい合ってきた積み重ねがあり、母親の傷を観てきた積み重ねがあるからですね。
<H>
そうなんです。その積み重ねがなければ、想起しろと言っても、空振りです。
そして、この生きることを肯定するエネルギーが、死を受け入れるエネルギーにつながります。一見して正反対の二つのエネルギーが、交互に、互いを深めていく。
<W>
それまで、耐えられずに、嫌いに嫌っていた死を、受け入れる。そうして死を受け入れると、更に深く、生を受け入れる。生と死の統合とでもいうべきものが起きるのです。生きるのもOK、死ぬのもOK。
<H>
理屈でいうと難しいですが、実際に、そのところを、自分のオリジナルの体験として体験し回復していくことになりますね。
ここのところの生死の統合は分かりにくいと思いますので、また、やりたいです。
<W>
そうですね。

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自傷を防ぐために唇を切除|生産性を考えるのであれば殺せばいい|天国と地獄|セラピーの現場から(700)

「「天国と地獄」」
———————「これ以上頑張れません話を聞いてほしい」———————
<W>
アコールのセミナーは個人的なものですが、まれに、企業単位でセミナーをやり、その中で、個人的な問題と企業の問題との絡みを、観させてもらうことがあります。
<H>
企業セミナーですね。
<W>
企業間の激しい競争によって、企業で働く個人が、人間として苦しむという問題があります。人間性の問題です。激しい競争は、日本全国、のみならず世界全体の苦しみということがあるのでしょう。企業は経済競争に支配され、少しでも生産性を上げなければ、生き残ることができません。生産性の問題です。生き残らなければ、個人に給料を払うこともできません。
<H>
その二つは、どう絡みますか。
———————「対応を考えたのだから文句はなかろう」———————
<W>
例えば、企業で働く個人が、競争が厳しくて業務が辛いから「話を聞いてほしい、これ以上頑張れません、苦しいんです」と思う気持ちを、企業組織の上司に訴える。人間的な苦しみですね。
上司は、その話を「問題解決」の問題として捉えようとする気持ちがあります。特に男性はそうです。業務が苦しくとも生産性を維持するにはどうすればいいか・・・。「それなら辞めてもらうか、誰かと交替するか。」
すれ違いが起きてしまう。個人は、「話しを聞いてもらえなかった」。上司は、生産性の解決に向けて「対応策を考えるのが俺の仕事。対応を考えたのだから文句はなかろう。」そこで問題が起きてしまう。話しを聞いてやれなかったかもしれないと上司はあとで感じるが、どうしようもない。
<H>
個人の人間性と企業の生産性、この二つが、すれ違ってしまう、ということですね。前者を労働者、後者を資本とすれば、資本主義の問題というような、経済学の問題になりそうですね。
———————「階級闘争の話ではない」———————
<W>
そうですね。階級闘争ですか。
しかし、ここで扱うのは、二つが、階級の争いの問題ではなく、一人の人の心の中の問題として存在するということです。一人のサラリーマンの心の中にも二つあるでしょう。一人の社長の心の中にも二つあるでしょう。
<H>
自然人の心の中にある人間性と生産性の問題ということでしょうか。
<W>
そうです。
ヒントになる話があります。あなた(H)から昔、よく聞いた話です。あなたが教師として養護学校で働いたときの経験です。
<H>
あれですか。
<W>
あれです。たっぷりお願いします。
———————「尿瓶を持って走り回る」———————
<H>
はい。
私が昔、若いときに、肢体不自由児の養護学校で働いたときですね。
<W>
お願いします。
<H>
養護学校で受け持ったのは、小学生から高校生にかけての男女の障害児たちでした。服薬のせいで臭いよだれと、腫れた歯茎と、ゆがんだ顔。言葉を話せない人たちも多い。身体も満足には動かせないんです。生きるための自分自身の世話もできない。その面倒を全部見てあげなければならない。トイレにも行けないので、尿瓶を持って、走り回る。若い女の私が、毛の生えかかったおチンチンを、尿瓶の中に入れてあげなければならない。
<W>
はい、はい〜。
<H>
よだれと臭いで汚れたTシャツを、1日に何回も着替える。初めの頃は、飲み会の席で思わず本音が出て「こんなの嫌だ」と泣いたことがあった。辞めていく同僚も少なくなかったんです。
———————「口に入れたら、うんこだった。」———————
<W>
はい。
<H>
そんな日が何年も続いた。徐々に慣れていった。私自身が変わっていったんです。彼らの中に自分の生活もある状態だった。食事指導も教育の一環で食べさせていた。自分も一緒に食事をしていて、チョコレートパンのかけらを落としたと思って拾って口に入れたら、すごく苦かった。うんこだった。
<W>
苦いんですね〜。
———————「車いすから降りて這いずってゲームを戦った」———————
<H>
重度の障害児たちだったので、身体は、まともに動かせないんです。そこでバスビーというゲームを産みだしたんです。バスケットとラグビーを一緒にしたようなゲームだった。彼らは、松葉杖や義足などを外し、車いすから降りて、ゲームを戦った。這いずって行って、タイヤの中にボールを入れたら得点になる。介助に入っている教師も自分の手足を縛って参加し這いずった。ヒートアップし、あちこちで、噛み付きや髪の毛を引っ張る事態になった。だから噛み付きと髪の毛引っ張りは禁止にした。ルールはそれだけだった。子供達はゲームに夢中になった。
<W>
手足を縛って、ね~。
<H>
教室で、何か学科を教えるというよりは、子供達の中で一体となって過ごした。休み時間も、職員室にはいなくて、教室の廊下で、プロレスみたいに、子供と組(く)んず解(ほぐ)れつしていた。子供達も私とのプロレスを好んだ。子供達からの評判は抜群だった。教師同士の授業研究では注目された。
<W>
授業が・・というより、心が繋がっている・・。
———————「生まれたとき母親は殺そうとした」———————
<H>
ある時期、私に、大きな不幸が起きたんです。事故や病気で、夫や肉親が立て続けに亡くなっていった。職場から帰ると泣き通す日々だった。毎朝、泣きはらした顔で職場に行った。子供達が言った「また泣いただろう。」言い返した「泣くに決まってるじゃん。」
子供達からの評判が更によくなった。あいつには、心がある、というようなことのようだった。子供達も私に話をした。「自分が生まれたとき母親は殺そうとした。」「親戚に責められて母親は死のうとした。」などと。私も、この職場に来たときには「気持ち悪い、何でこの子たちは生きているの、こんなの嫌だ」と泣いたんだという話をみんなにした。・・・それでも、何がやりたい?と問うと、みんなでバスビーをやりたいと言った。いつの間にか天国を見ていた。彼らは生産性はゼロだが人間性の塊だった。
<W>
うん。
———————「高収入のぬいぐるみ」———————
<H>
少し横道にそれます。こんな仕事をしていて、いろいろ有名な会社のトップの方にもお会いする機会がありました。高収入、高学歴、容姿も淡麗、話し方も流麗、服も一流。でも心がない。からっぽ。まるで、立派なぬいぐるみのよう。本当にぬいぐるみだと感じたんですよ。
それに比べて、障害児の子供達は正反対。見た目は丸でひどい様子だったが、心は超一流。
<W>
・・・・
———————「自傷を防ぐために手術で唇を切除して歯列が丸出し」———————
<H>
子供達は自分の世話ができない。便秘の子供はお尻をほじってやらなければならない。女の子には生理のときタンポンを入れてあげなければならない。そんなとき私は「感謝するんだぞ」などと言っていた。でもあるとき気が付いた。自分でできないので断れない、他人に頼むしかない。年頃の子供達は恥ずかしいはず。我慢しているはず。それなのに・・・と、トイレに駆け込んで大泣きした。
<W>
・・・・
<H>
彼らの中には、自傷で、唇を歯で噛み、頭を打ち続ける子がいた。唇を血だらけのぼろぼろにするので、それを防ぐために手術で唇をすっかり切除して歯列が丸出しになる子もいる。彼らは、自殺しようとしても窓枠までたどりつけない。自殺するために海岸に行くわけにはいかない。私は車でどこへでも行ける。なんと恵まれていることだろう!。
<W>
・・・・
———————「生産性を考えるのであれば殺せばいい」———————
<H>
教育とは何か、障害児教育とは何か。障害を持つ子供達は長くは生きられない。数年で死んでしまう病気の子もいる。教育して言葉や算数を教えてそれで何になる。生産性はゼロどころかマイナス。生産性を考えるのであれば殺せばいい。3年前に障害者施設「やまゆり園」で大量殺人が起きた。ヒットラーはそれをやった。ドイツ国民が支持した。社会で劣っているとみなされた人々が、恐ろしい数、殺された。まるで地獄。しかし生産性を考えれば合理的な考えかも知れない。
<W>
ありがとうございました。
人類が誕生して数万年。地球ができて数十億年、宇宙ができて百数十億年。私たちは無事に生きれば80年ほど生きる。しかし80年だろうが数年だろうが、全体から見れば大して違わない。自分たちは同じような時間、同じところに住んでいる。
「話を聞く」という人間性のことと「生産性」のことで、Hさんの面白い経験談が久しぶりに聞けました。
話を聞いてほしいという人に対して、話が聞けなかった、と嘆くことは、一見ほんの少しの食い違いかもしれません。しかし、Hさんが養護学校で経験された「天国」と、劣っているものを殺してしまう「地獄」とは、天と地のほどの食い違い。根は同じ。人間性と生産性の食い違いは深いです。

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doではなくbeを会得する自己トレーニング|セラピーの休憩時間(699)

「doではなくbe」
ベビーブレスは、激しい呼吸を長時間続けることで、赤ちゃんのようになることを目指す。うまくいけば赤ちゃんのように呼吸し、赤ちゃんのように声を出し、赤ちゃんのように動く。始めはうまくいかないかもしれない。「演技」が有効かもしれない。そのうちに赤ちゃんのように「なる」。「演技」から「なった」ことは本人が分かる。doからbeである。治療的退行と呼ばれる。いろいろの治療効果が期待できる。
ところが「演技」と「なる」の区別がつかないということがある。いつまでも「演技」が続き「なる」ことができない。いつまでも演技が続き、それを演技だと自分で認識できない。
そういう場合、ベビーブレスの中だけではなく、生活自体にも同じような傾向がある。要求されたことはする(do)けれど、自分が何をしたいのか分からない。自分の本音が分からない。自分に感情がない。「be」できない。
「beの自己トレーニング」
そうであれば、日々のトレーニングを次のように行うことができる。一人で部屋に立っているとき、横になっているとき、何かを意図して行う「do」ではなく、何かを「する」必要がない「be」を会得する。まるで赤ちゃんのように「なって」しまわなければならない。要求されなくても、自分がしたいことを、いつの間にかやっている、それが自然に身についていく。例えば、部屋を掃除するにしても、掃除機を動かす順序などは気にせず、目についたやりたいところから掃除する。やりたいところが変わったら、その瞬間に、何も考えないまま、変わったところを優先して掃除する。
「徐々に変わる」
そのようになるよう自己トレーニングすることで、そのように務めることで、できなくてもできるように努めることで、徐々に、自分の中が変わっていく。
そうすれば、何をしたいのか、と問われれば、簡単に答えられる。自分の本音が明確になる。知らないうちに自分の感情とともに居る。それが健康というものであることが実感として分かる。

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辛さの奥には辛さを感じる健康さがある|セラピーの現場から(698)

<W>
長い間、ブログをお休みしていました。ホームページもアクセスできない期間がありました。
<H>
サーバーの引越しだったんですね。
<W>
そうなんです。自力でやれる部分を増やそうとして、一応、自主管理ということでやろうとしたんですが、難渋しました。
<H>
今は、トラブっていることはないのでしょうか。
<W>
はい、おかげさまで。
<H>
ブログも頑張ってくださいね。待っている人も多いと思います。
さて、今日は、「自分の辛さが分かる」ということを話したいと思います。例えば、自分自身の生き辛さ、人とのトラブルなどの、辛さ。
<W>
いつも、内輪で話題になることですね。
<H>
そうです。話題になる理由は、そこに二つの方向があるからですね。一つは、辛さから逃げてしまう。責めることはできません。もう一つは、辛さが分かるということは、ある理解がそこにある。逃げない。
<W>
快、不快で、苦痛から逃げるのは、当然と言えば当然ですからね。でも、逃げてしまうと、セッションの進みが悪くなってしまう、という愚痴も出てしまうのですね。
<H>
はい、愚痴が出ます。
<W>
本気で逃げる時は、本人は、逃げたという意識は無いですね。
<H>
重症なほど、無いですね。「こんな辛いこと、いやだ~、逃げてやる」というのは意識がありますから、重症ではありません。重症なときは、意識がなく、ケロリとしています。自分が逃げたことを知りません。
<W>
戻すのが大変ですね。「・・・逃げてやる」は、逃げることが話題になっていますから、楽ですよね。ケロリは、そもそも逃げたことをどうやって話題にするのか、から工夫しないといけませんね。
<H>
そうです。
<W>
そもそも、人は、辛い状況にあっても、これが普通と思うかもしれない。セッションを受けて、回復したときに、こんなこと!(回復した状況への感慨)が起きるのかという感想を持つ。それからすると、あの状況は普通じゃなかった。すごく辛かった。それで初めて分かる。それまでは、本当の意味では、けっして、分からない。
<H>
そう。
<W>
回復が起きないうちには分からない。
<H>
う・・・ん。いえ。
辛いということは、実は、分かっている。ぼんやりさせているかもしれないけれど、分かっている。分かっているからこそ、辛い。辛さの奥には辛さを感じる健康さがある。
<W>
辛さを感じる健康さこそが、治療の始めに、治療を進める原動力になる、ということですね。
<H>
はい。治療が進み、辛さの原因を見抜いたときに、自分は健康であったことが強く分かる。自分は始めからこうだった。健康だった。ちょっと病んでただけだ。
<W>
治療のためには、その辛さこそが、救い。そこが今日の話ですね。
<H>
辛さの手前で、辛さを否定すれば・・、辛さなんてない、これが普通、人並みと、いうことにすれば、自分への嘘つきにならざるを得ない。嘘つきの人生。分かることは健康。辛いと分かることは健康。

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