110 探しても見つからない(?)「いい母親」(コンラット・ローレンツの実験)2/2

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探しても見つからない(?)「いい母親」    2/2

目の前にいる愚かな母親の中に「いい母親」を探すことは、無駄なことのように思える。

その無駄なことの中に何とか活路を見出し、妥協し、再び偽善の努力の中に戻ろうというようなことではない。
そうでは無い。そんな偽善は「いい母親」を探すということの意味を、見失っている。わなに落ちている。「いい母親」と言うのは、私たちが幼かった頃に<感じた>母親である。幼かった私たちは、無力であり、純真であり、どんな母親にでも、けなげに付いていく。その母親の庇護のもと、はじめて生きることができる。幼い子供の目に映る母親には、命を助けてくれる「いい母親」が存在する。主観的なものである。実際に「いい」ことが証明されうるというような客観的なものではない。

カルガモの[刷り込み]の実験(コンラット・ローレンツの実験)では、生まれたてのカルガモのひなが、初めて見た動くものを、母鳥と思い込む。例えば、風船やおもちゃの汽車を母鳥と思い込み、懸命に付いていく。その懸命さは、けなげで、本物の母親を慕うようで、見ているこちらの胸が痛くなる。主観的には風船は「いい母親」なのだ。すばやく盲目的に付いていくことで肉食獣から命を奪われる確率が減る。命そのもの。客観的には、風船は、ただのゴム膜と空気であり、いい母親などではありえない。そもそも母親でさえありえない。しかし、そのような客観性のことではない。

「いい母親」と言うのは主観的なもの。幼い子供の主観。思い出すために、表を通りがかりの若い人が押す乳母車の中の赤ちゃんの目を、覗き込んでほしい。「いい母親」は、私たち幼い子供が、汚れないまごころでつかんだもの。傷つく心をかえりみず懸命に受け入れたもの。天使のような純真さで手に入れたもの。現実の外の世界に存在する、できの悪い母親、悪意の母親の存在では否定されないもの。「いい母親」は幼い私たちの心の中に厳然として存在していた。今も心の中に存在する。私たち自身の命のようなもの。かけがえのないもの。

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